二つの「紀伊名所図会」―根来椀をめぐって―

 江戸時代の紀州を代表する地誌として「紀伊名所図会」という本があります。「紀伊名所図会」が、江戸時代後期に刊行された紀伊国全体に関する地誌で、三編の編者は加納諸平(1806~57)で、挿絵は岩瀬広隆(1808~77)が担当しました。

 さて、昨年度、大阪市立美術館・サントリー美術館で開催された「NEGORO根来―赤と黒のうるし―」(2025年)において、当館の「紀伊名所図会」が出陳されました。そのときに気がついたことを少しご紹介したいと思います。

 大阪市立美術館・サントリー美術館から、根来塗の説明をするなかで、当館の所蔵品である「紀伊名所図会」を出陳したいという依頼がありました。そこで、あらためて活字化されている刊本をもとに、収蔵品の確認・写真撮影を行おうと思いました。刊本(歴史図書社刊)には次のように出て来ます。

 

「紀伊名所図会」三編 巻之一(甲本)

【本文】

根来椀

中古根来寺の繁昌なりし時、山内の院々田亦当村或ハ西坂本等にて朱」塗の椀・折敷を製す、今播州の書写塗と並び賞する、根来の膳椀是なり、」居尻等に天正年間の銘、殊に多し、いつの頃より製せしか詳ならず、岡本鞆足云、」此頃見分する内に右京公といふ銘あり、其塗甚よし、天文十三年の売券に」東寿院内右京公といふ名あり、東寿院ハ根来菩提院谷内の院名なり、銘文の右」京公同人なりと知べし、然ときハ天文頃等製せしこと亦知るべし、居尻の銘一」二下に載す、

【図版】(略)

 しかし、当館所蔵の「紀伊名所図会」三編巻一の根来椀の項には、説明文や図版の異なるものが載っていました。はて、これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

「紀伊名所図会」三編 巻之一(乙本)

【本文】

根来椀 

中古根来寺の繁昌なりし時、山内の院々、又当村或は西坂本等にて、朱」塗の椀・折敷を製す、抑根来塗は、覚鑁上人開基以来、此辺にて製し初し」にや、京人の塗師長寛が記せるものを見るに、根来塗の古きかぎりは、長寛」二年施主古河丸とかきつけある朱塗の机を第一とす、其机平卓の」やうなれども、仏前の机なるべし、是開基の頃の事なり、然れども、一山」漆塗を専に製するは、夫より二百年ばかり後の事ならむ、机・香合・」天目臺・木工椀、みな仏具なり、余は菓器・食籠のかたちしたるもの、其外」何にもちひたる物か、たしかならぬも見ゆれども、元来今の世のごとく、風雅」の道開えぬ時なれば、たゞ日用に遣ひ堅く損ぜざるを称して、世に行れ」たりと見ゆ、さて古代の食用の器物、凡朱塗なり、青漆うるみ朱又黒漆」も見ゆれど、食器を専黒漆に製する事は茶道流行より後の事とみえ」て、故実にあらず、今法事の時朱漆の品を用ふる事になりたるは、故実の」仏家に伝はれるなり、天正十三年一山回録して衆徒及び近辺の民悉」諸方に分散す、この時、泉州堺津ことに繁昌して茶香及諸道風雅」盛にて、右の残党も多く此所に集て、専漆器を作る、これを堺根来といふ、其余風天和・貞享比までは在しにや、其時分の年号あるものを見たり、」又根来時代の仏具、其外の品、大きなるは年号あるもの多けれども、食器の類」には年号月日を記し、時代の明証とするもの稀なり、只寺号あるひは」名などのみなり、絵も稀にあり、大抵三百年ばかりの品かといへり、古筆家」にては一字にてもしるしあれば、時代を極る事常なれども、普通の証とする」には年号なければ不分明なれば、年号ある物一・二左に記して、其余居底」の銘等を載す、此外いと多しといへとも、今略す、古代の朱漆等の論に爰」に尽しがたければ、幷に略せり、

【図版の文字】

京大倉好斎蔵/永和三年〈丁巳〉卯月廿五日 永和年号ハカクノ如キ/器ノ底ニ書ケリ

建徳元年拾月 西院住/建徳年号 在若山安田長穂蔵器之底

綱維春明二十五之内明徳二年辛未六月日/大倉好斎蔵/明徳年号書/此処回リ書ニセリ

チヤツノウラ/三之門/安田長穂蔵

以下並安田長穂蔵/竹殿  百花口/シル椀ノゴトキ/モノヽウラニアリ

以下三ハ/豆子ニカキタリ/花蔵院/六福蔵院/喜多門

永和三年/不動尊前/正月吉日/不動ノ銘ノ三方ノ如キ/モノヽウラニアリ

 

 文字量も多く、図版も異なります。内容は、堺との関係に触れるなど、これまで知られている記述(甲本)よりも詳細で、なおかつ年号のある大倉好斎や安田長穂が所蔵する根来塗を中心に図版で紹介されています。なかには、現在、東京国立博物館や高野山持明院が所蔵の根来塗(天目形椀)と同じ銘をもつものもあります。さらには、これまでの根来塗研究で紹介されている紀年銘根来塗一覧には載っていないものも含まれています。根来塗に対する研究姿勢などもうかがえて、研究史的にも興味深いものと思います。

 当館では複数セット「紀伊名所図会」を所蔵しているので、別のセットの本も見てみることにしました。すると、刊本と同じ記述が見つかりました。

 どうやら「紀伊名所図会」には、いくつか版があるのではないか、そういうことが見えてきました(仮に甲本と乙本とします)。そこで、他の館(国立国会図書館や大学図書館など)が所蔵する「紀伊名所図会」についても、デジタルアーカイブで公開されているものを中心に確認してみました。すると、根来椀の部分について、2種類の記述に分かれることがわかりました。根来椀の部分のみ板木にして1枚半分、修正・追加されていたのです。

 刊記などでは改版事情や時期はうかがえませんでした。また、これまでの研究においても「紀伊名所図会」に複数の版があること、また改版されたことを指摘するものを見出すこともできませんでした。どういった事情でこのような状況になっているのか、謎はまだ解けないままです。またどちらがオリジナルで、またその前後関係も正確にはわかりません。素直に考えると、簡略なもの(甲本)から詳細なものへ(乙本)へという変更があったとするのが自然でしょう。

 まだ、すべてのページと文字・図版について比較検討できてはいませんが、今のところ、改版されているのは、この根来塗(「根来椀」)の部分だけとみています。そこにもどういった事情があるのでしょうか、気になるところです。当時の文化人たちのネットーワークで、新たな情報を得られて補訂したのか、もしくは訂正すべき事柄が出て来たから、書き換えたのかなど、興味は尽きません。

 なお、これまでの根来塗の研究のなかでは、活字化されていたもの(甲本)をもって、根来塗(実際には「根来椀」として立項)の説明がなされていました(河田貞『日本の美術5 No,150 根来塗』(至文堂、1976年)、MIHO MUSEUM『根来―中世に咲いた華―』(目の眼、2013年)など)。そういう点では、「新発見」ともいえるかもしれません。ただし、基本的にはずっと公開されていたもので、今の今まで誰も気づきもしていなかった、見過ごされてきただけなのですが。

 根来塗の研究にとっても、また「紀伊名所図会」研究にとっても、考えさせられる発見でした。よく知られた資料(版本であり、また活字化された資料)であっても、まだまだ「新発見」?は眠っている、そんなことを感じさせてくれる一件でした。

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