遊佐長清書状写(館1194)

近年収集した資料で、展示などでもまだ紹介していなかったものを紹介したいと思います。本資料は、遊佐長清が神保式部丞に宛てた書状の写しです。縦15.3㎝、横38.4㎝の切紙です。本文書の右端には、切封の痕跡らしきものが残っていますが、袖に「本紙ほうせう(奉書ヵ)歟」とあり、写しかと思われます。

【釈文】

   「本紙ほうせう歟」

 就隅田肥前知行分之

 儀、委細別紙申候、此時

 別而御指南在所等無相違

 被去渡候様、御馳走於拙者

 一段可畏入候、白井四郎兵衛尉方

 隅肥事ハ無等閑仁候条、

 頼存候様無他候、恐々

 謹言、

 二月十五日  長清(花押影)

  神保式部丞殿

       御宿所

 

 『和歌山県史』中世史料一に花岡家文書(4号)、金剛峯寺編『高野山文書』第七巻に花岡家文書(367号)として掲載されている、橋本市恋野の花岡家文書と考えられます。端裏に「花岡三」というラベルが貼られています。 花岡家は近世隅田組十五家の一つで、平安時代末・鎌倉時代の武士源光忠の子孫と伝える家です。なお『和歌山県古文書目録』10によると、近世文書も含め、花岡家文書として30点の存在が知られています。当館では本来同じ花岡家文書であったと思われる畠山政長書状(館1152、『和歌山県史』中世史料一には花岡家文書1号文書として掲載)も館蔵品として収集しています。

 差出者の遊佐長清は、永正18年(1521)~天文3年(1534)頃に活動した人物で、紀伊国守護畠山稙長の有力内衆・小守護代で、永正18年頃には奉行人として連署奉書の発給などを行っていることが知られています。また宛先となっている、神保式部丞は、紀伊国口郡の小守護代と考えられます。なお、『和歌山県史』『高野山文書』では「神保満包」と比定していますが、弓倉弘年氏は誤りと指摘しています(弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年)。

 内容は、隅田肥前守(能継ヵ)知行分のことについては詳しくは別紙で申し上げる、特に管理(保護)下にある在所等のことについては間違いなく去り渡していただき、ありがたく存じます、白井兵衛尉方(『和歌山県史』『高野山文書』では白井友就としていますが、根拠・詳細は不明です)の隅田肥前守はなおざりにしてはならない人物で、頼もしいことこのうえない、と遊佐長清が神保式部丞に伝えています。隅田肥前守が畠山稙長方での働きをし、忠節を尽くし、知行を安堵されたことがうかがえます。

 年代や背景などを特定できませんが、関連文書として同日付けの遊佐長清書状(花岡家文書3号)がある点が注意されます。その文書は、守護代遊佐長清が小守護代三名(智荘厳院・神保式部丞・野辺掃部助殿)に宛てたもので、隅田肥前守を差し下され、特に忠節に励んだその働きを褒め称え、知行分の安堵を約束し、御礼を述べるという内容で、さらに別紙で申し上げているので、詳しくは省くとしています。その別紙というのが本書状なのでしょう。今後、関連史料なども含め、年代や背景などさらなる検討が必要です。

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