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コラム:五鬼の家が守った碑伝と護摩札

五鬼の家が守った碑伝と護摩札
 紀の川市中津川の山中にある中津川行者堂は、大阪・和歌山・奈良にまたがる和泉山脈と金剛山地の峯々をめぐる葛城修験において、重要な聖地として位置づけられてきた。
 この中津川行者堂に多数の「碑伝(ひで)」と「護摩札(ごまふだ)」が伝わっている。 碑伝とは、修験道の行者(山伏・修験者)たちが、自らの修行の証しとして山中の行場に納める札で、木の薄板に墨で名前と年月日や願文などを書いたものが一般的だ。
 また護摩札は、丸太で壇を組んで杉の葉を燃やし炎と煙を立ちのぼらせる、採燈護摩(柴燈護摩とも)という修験道の重要な儀礼を行った際に行場に納める木札で、記す内容は碑伝とほぼ同じだ。
 中津川行者堂には現在、江戸時代の碑伝が78枚、護摩札が60枚が残る(判別不明分3枚。大般若経転読祈祷札10枚。明治~昭和期の碑伝・護摩札95枚)。最も古いものは慶長13年(1608)に三井両峯先達捨身行者玉林坊が納めた碑伝で、嘉永2年(1849)に聖護院雄仁親王が納めた碑伝が最も大きい。
 これら碑伝や護摩札は野外の行場に奉納されるもので、本来ならばそのまま朽ち果て土となる。なぜ中津川行者堂には、大量の碑伝と護摩札が残されているのだろうか。その理由は「五鬼の家」にあると考えられる。
 五鬼の家とは、字のごとく、鬼の末裔とされる五つの家のことである。『紀伊国名所図会』には「役行者葛城山を開くに、斧を執りて前後に従へるものを前鬼後鬼といふ。前鬼の子孫五人、中津川村に住す。惣髪にして、聖護院宮より官名を賜る。前坂主殿・亀岡式部・西野主馬・中井左京・中川但馬といふ。」とあり、五鬼の家は、役行者に従う前鬼の子孫であると伝承されている。
 修験道における鬼(鬼神)は、修験者たちの修行をサポートする象徴的な存在である。中世後期から近世にかけて、聖護院を本山とする本山派修験では、中津川で葛城灌頂という葛城修験における最も重要な儀式を行ってきた。中津川が重要な行場であるが故に、行場を管理し修験者を支援する人たちを、聖護院は役行者ゆかりの鬼の末裔として位置づけて顕彰したとみられる。
 こうした五鬼の家による恒常的な行場の管理が行われる中で、碑伝と護摩札は朽ちて失われる前に拾われ、保存された。その結果、近世を通じて、全国より修験者たちが集まり、絶えることなく行われた葛城入峯の実態を具体的に明らかにする、希有な資料として残されることとなったのである。
 一枚一枚の碑伝・護摩札は、一見すれば木の板に墨で字を書いただけの地味な資料である。しかしそれは、本来この世に残るはずのなかった資料である。その一枚一枚から修験者たちの生きた痕跡が浮かび上がってくることは、奇跡といってよいだろう。
 現在も五鬼の家では、行者堂を管理し、修験者の修行を助け、碑伝の拾得を続けている。奇跡は、現在進行形である。(学芸員 大河内智之)
碑伝と護摩札
多数の碑伝と護摩札

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