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木食応其書状(館蔵品977)

木食応其書状(館蔵品977)
木食応其書状(長老坊あて)  ※クリックすると拡大した画像が見られます。
【釈文】
(軸背書)「金堂木食筆 金剛三昧院聚勝」
   猶々御返報ニより以面
   可申入候、以上、
堺之高野道場之儀、去秋
より買返し申候条、貴院
御大師彼道場へむかへ
申度候、於御同心は可為満足候、
尤以使可令申候へ共、先以書状を申候、
恐々謹言、
  十一月四日     応其(花押)
(切封ウワ書)「長老坊御同宿中 金堂木食応其」
【写真・解説等】
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
【翻刻】
・金剛峯寺編『高野山文書』2-330号
【内容】
木食応其が金剛三昧院の長老坊にあてた書状です(金剛三昧院旧蔵)。
天正13年(1585)と推定されます。
昨年秋に買い戻した「堺之高野道場」(高野堂)に弘法大師の御影を安置したいので、
金剛三昧院から御影を借り受けたく、ご同意いただければありがたい、
ということを伝えたものです。
実際、11月8日に大師像を迎え入れ、
応其が死ぬまで借りる契約もしていました(金剛三昧院文書)。
永正13年(1516)には、高野山大塔造営のために、阿本上人は堺宿寺のうちに勧進所を建て、
金剛三昧院の大師像を本尊として祀っていたようですが、
大塔が完成後には「御堂」を建て、御影は返上したようです(阿本上人請文)。
このように堺は、高野山が勧進活動を行う際の拠点になっていました。
ただ戦国時代を通じて維持されていたわけではなく、
応其の時には堺高野堂は高野山の手を離れていたようです。
そういったなか、応其は堺高野堂を買い戻したうえで、
阿本と同様に金剛三昧院の大師像を借りて勧進をしようとするなど、
阿本の活動を踏襲し、勧進を行っていたことがわかり、興味深いものがあります。
高野山僧による勧進活動を知るうえでも、非常に重要な史料となっています。
(当館学芸員 坂本亮太)

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