牡丹孔雀図 徳川治宝筆 長保寺蔵
紀伊藩十代藩主の徳川治宝(はるとみ、1771?1853)は、紀伊藩八代藩主の徳川重倫(しげのり、1746?1829)の次男で、幕府の十代将軍・徳川家治(いえはる、1737?86)の養女と結婚しました。将軍家との結びつきが強かったためか、藩政では絶大な権力をにぎったようですが、その一方、歴代の紀伊藩主の中で、最も文化や芸術に造詣が深く、みずから書や絵を制作しています。また、茶道や陶芸にもきわめて関心が高く、表千家の家元である了々斎(りょうりょうさい、1775?1825)や吸江斎(きゅうこうさい、1818?1860)、さらには京都の有名な陶工である楽旦入(らくたんにゅう、1795?1854)や永楽保全(えいらくほぜん、1795?1854)などを招いて、別邸・西浜御殿の偕楽園(かいらくえん)という庭で、やきものを焼かせたほどです。
この絵は、その治宝が描いた絵で、牡丹の花と孔雀の親子を細かい筆使いで表現しています。そもそも牡丹は、その華麗さから中国では花の王とされ、富貴の花と呼ばれて美しさと富を象徴する花でもありました。また、孔雀は毒蛇を食べるとして孔雀明王に神格化されたほか、九つの徳を備えた賢い鳥とも見なされたようです。また、東洋の絵画や工芸の分野では、伝統的に雌雄や親子で描かれる鳥には、夫婦和合や子孫繁栄の意味が込められていると考えられています。
治宝は、庭で作らせたやきものや漆器のデザインに中国趣味を強く反映させるなど、中国風の主題や表現をとくに好んでいました。この絵にも、そうした治宝の趣向が映し出されているかのようで、いかにも藩主らしい、おめでたい主題選択と言えるでしょう。
なお、同じころ、当時流行した南蘋画風(なんぴんがふう)という中国風の絵を得意とした森蘭斎(もりらんさい、1740?1801)という画家が、紀伊藩主の注文で孔雀の絵を描いたようなので、この絵にもそうした作品からの影響が考えられるのかもしれません。(学芸員安永拓世)
→企画展 紀伊藩主をめぐる文雅
→和歌山県立博物館ウェブサイト