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コラム 紀州の画家紹介 1 狩野興甫(かのうこうほ)

本日から始まった企画展「江戸時代の紀州の画家たち」。
この企画展に関連したコラムでは、
今回展示している江戸時代の紀州の画家を、
一人ずつ、紹介していくことにしましょう。
さまざまな地域で活躍した画家の情報を知りたいと思ったとき、
インターネット上では、なかなか充分な情報が得られないことが少なくありません。
ましてや、その画家が、その地域でしか知られていないような場合、
なおさら情報が少ないといえます。
そこで、今回のコラムでは、紀州の画家についての情報を、
わかる範囲で箇条書き形式でまとめました。
不十分な点もありますが、こうして公開することで、
雅号や別名を検索していただくこともできるのではないかと考えています。
また、画家の経歴などだけではなく、
今回展示した作品の署名や印章の情報も画像で公開してみます。
画家についての情報を探していらっしゃる方や、
この絵を描いた画家がわからないという方など、
いつか、どこかで、何らかの形で、
これらの情報がお役に立てば幸いです。
まず、第1回目は、紀州を代表する狩野派の画家である、
狩野興甫(かのうこうほ)についてご紹介しましょう。
狩野興甫(かのうこうほ)
◆生 年:未詳
◆没 年:寛文11年(1671)12月2日
◆享 年:未詳
◆家 系:江戸の狩野派の画家である狩野興以(かのうこうい、?~1636)の長男
◆出身地:江戸
◆活躍地:紀伊・江戸・京都など
◆師 匠:狩野興以(父)
◆門 人:狩野興益(かのうこうえき、?~1705)(長男)
◆流 派:狩野派(紀伊狩野)
◆画 題:山水・人物など
◆別 名:弥右衛門・興之・朝雲
◆経 歴:紀伊藩のお抱え絵師。寛永4年(1627)、紀伊藩初代藩主の徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602~71)から、「御絵御用」として登用され、切米100石をもらう。紀伊狩野家の初代となる。寛永13年(1636)、日光東照宮造営の障壁画制作に参加。万治2年(1659)、江戸城本丸御殿造営の障壁画制作に参加。承応3年~4年(1654~55)、京都の内裏造営の障壁画制作に参加。万治3年(1660)、長男の興益に家督を譲り、隠居。寛文2年~3年(1662~63)、京都の内裏造営の障壁画制作に参加。
◆代表作:「唐人物図屏風(とうじんぶつずびょうぶ)」(高野山一乗院(こうやさんいちじょういん)蔵)、「三十六歌仙扁額(さんじゅうろっかせんへんがく)」(玉津島神社(たまつしまじんじゃ)蔵)万治3年(1660)、「山水花鳥人物図押絵貼屏風(さんすいかちょうじんぶつずおしえばりびょうぶ)」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示している作品は、「唐人物図屏風」(和歌山県立博物館蔵)です。
狩野興甫「唐人物図屏風」(和歌山県立博物館蔵)軽
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
狩野興甫「唐人物図屏風」款記(和歌山県立博物館蔵)軽 狩野興甫「唐人物図屏風」印章(和歌山県立博物館蔵)軽
款記は「興甫筆」、印章は「朝雲」(白文外円内瓢印)です。
現在は屛風になっていますが、左右の端に引手跡(ひきてあと)があることから、当初は襖(ふすま)であったことがわかります。
興甫の代表作というほどではありませんが、硬く鋭い筆致や、墨の濃淡や強弱には、江戸の狩野派の特徴がよくあらわれているといえるでしょう。
ちなみに、興甫の父である狩野興以は、江戸幕府のお抱え絵師となった狩野探幽(かのうたんゆう、1602~74)や狩野尚信(かのうなおのぶ、1607~50)を指導したとされる画家で、江戸の狩野派で重要な役割を果たした人物です。興以の長男である興甫は、紀伊藩のお抱え絵師となりましたが、興甫の弟である狩野興也(かのうこうや、?~1673)は水戸藩、さらにその下の弟である狩野興之(かのうこうし、?~1643)は尾張藩のお抱え絵師となっています。つまり、興以の息子たちは、それぞれ御三家のお抱え絵師となったわけで、興以が狩野派内で高く評価されていたことがうかがえます。
いずれにせよ、そうした興以の長男である興甫は、優れた画家でもあったはずで、紀伊藩のお抱え絵師になって以降も、日光東照宮や江戸城、京都の内裏などでの障壁画制作に参加する姿からは、その活躍ぶりが想像されるといえるでしょう。(学芸員 安永拓世)
江戸時代の紀州の画家たち
和歌山県立博物館ウェブサイト

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