企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
10回目にご紹介するのは、野呂介石(のろかいせき)です。
野呂介石(のろ・かいせき)
◆生 年:延享4年(1747)1月20日
◆没 年:文政11年(1828)3月14日
◆享 年:82歳
◆家 系:和歌山城下の町人であり湊紺屋町大年寄(みなとこんやまちおおどしより)を務めた野呂方紹(のろほうしょう、1704~69)の五男
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊・江戸・京都・大坂
◆師 匠:鶴亭・池大雅(いけのたいが、1723~76)
◆門 人:野際白雪(のぎわはくせつ、1773~1849)・阪上梅圃(さかがみばいほ、生没年未詳)・阪上漱雪(さかがみそうせつ、1765~1847)・阪上淇澳(さかがみきおう、生没年未詳)・阪上素玉(さかがみそぎょく、生没年未詳)・前田有竹(まえだゆうちく、生没年未詳)・前田紫石(まえだしせき、生没年未詳)・薗部屋東渠(そのべやとうきょ、生没年未詳)・小山青筠(こやませいいん、生没年未詳)・野呂介于(のろかいう、1777~1855)・平林無方(ひらばやしむほう、1782~1837)・浜口灌圃(はまぐちかんぽ、1778~1837)・野呂松廬(のろしょうろ、1791~1843)・上辻木海(うえつじぼっかい、1800~75)・馬上清江(まがみせいこう、?~1842)など
◆流 派:文人画
◆画 題:山水・花鳥など
◆別 名:九一郎・弥助・休逸・隆・隆年・第五隆・斑石・十友・十友窩・澂湖・混斎・松齡・矮梅・台岳樵者・三台山樵・四碧斎・四碧・碧道人・碧斎など
◆経 歴:紀伊藩士、文人画家。若い頃、黄檗画僧の鶴亭(かくてい、1722~85)に絵を学ぶ。明和4年(1767)、京都へ出て、文人画家の池大雅(いけのたいが)に師事。明和8年(1771)、大雅の妻の池玉瀾(いけのぎょくらん、1727~84)と紀ノ川を遊歴。安永8年(1779)、大坂の文人である木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736~1802)を何度か訪問。天明2年(1782)~寛政元年(1789)の間、毎年のように大坂の蒹葭堂を何度か訪問。寛政5年(1793)、紀伊藩医の今井元方(いまいげんぽう、1768~1819)、名草郡奉行の小田仲卿(おだちゅうきょう、1746~1814)、文人画家の桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746~99)とともに熊野旅行へ行く。同年、医師であったところを、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から紀伊藩士に登用され、「勘定奉行支配小普請」となり、在方役所へ勤務し、5人扶持をもらう。寛政6年(1794)、和歌山を訪れた蒹葭堂と交流。同年、「御徒格」、切米10石3人扶持となる。寛政7年(1795)、「御勘定見習在方」となり、肩衣(かたぎぬ)の着用を許され、切米15石に加増。寛政8年(1796)、「銅山方」「甘蔗方」「御勘定」「松山方」「御救方」を兼務。寛政9年(1797)、「御広敷番」となるが「甘蔗方」も兼務し、加増される。寛政11年(1799)、「独礼」となり、切米20石に加増。同年、「砂糖方出精」として、褒美に銀をもらう。同年、公務で江戸へ行き、その道中で富士山を見る。寛政12年(1800)、「砂糖方御用頭取」となる。同年、和歌山を訪れた蒹葭堂と交流。享和元年(1801)、大坂の蒹葭堂を訪問。同年、公務で江戸へ行き、その道中で赤富士を見る。同年、「大御番格」となる。文化3年(1806)、「新御番格」となる。文化8年(1811)、多武峯(とうのみね)談山神社(たんざんじんじゃ)千手院伝来の黄公望(こうこうぼう)筆「天池石壁図(てんちせきへきず)」(藤田美術館蔵)を模写。同年、和歌山を訪れた豊後国出身の文人画家である田能村竹田(たのむらちくでん、1777~1835)と交流。文化12年(1815)、「御書院番格」となり、5石加増。文政2年(1819)、治宝から「山色四時碧」の書を賜り、以後、四碧斎(しへきさい)と号す。同年、治宝のために「王摩詰画学秘訣図式(おうまきつががくひけつずしき)」(京都国立博物館)と「王維画訣図巻(おういがけつずかん)」(個人蔵)を描く。同年、切米25石に加増。文政8年(1825)、和歌山を訪れた頼山陽(らいさんよう、1780~1832)・篠崎小竹(しのざきしょうちく、1781~1851)・雲華大含(うんげだいがん、1773~1850)・阿部縑洲(あべけんしゅう、1793~1862)など各地の文人と交流。文政9年(1826)、治宝から時服を拝領。文政11年(1828)、治宝から紅裏時服(べにうらじふく)を拝領。長寿で活躍時期が長いため、現存する作例も多い。また、全国にも名を知られ、とりわけ紀州では多くの門人を育てた。紀州の画壇に与えた影響は大きい。
◆代表作:「那智瀑布図(なちばくふず)」(個人蔵)寛政6年(1794)、「鳴滝図巻(なるたきずかん)」(個人蔵)寛政10年(1798)、「和佐真景図(わさしんけいず)」(個人蔵)文化3年(1806)、「春景山水図(しゅんけいさんすいず)」(和歌山県立博物館蔵)文化5年(1808)、「天池石壁図(てんちせきへきず)」(藤田美術館蔵)文化8年(1811)、「富岳紅暾図(ふがくこうとんず)」(個人蔵)文化13年(1816)、「王摩詰画学秘訣図式」(京都国立博物館蔵)文政2年(1819)、「王維画訣図巻」(個人蔵)文政2年(1819)、「那智三瀑図(なちさんばくず)」(和歌山県立博物館蔵)、「秋景・冬景山水図屛風(しゅうけい・とうけいさんすいずびょうぶ)」(個人蔵)文政4年(1821)、「泉石嘯傲図帖(せんせきしょうごうずじょう)」(個人蔵)文政7年(1824)、「山水図屛風」(和歌山県立博物館蔵)文政9年(1826)など
以下、今回展示している作品をご紹介しましょう。
まずは、介石が30歳代から40歳代ごろに描いたと思われる比較的初期の作例である「山水図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「斑石樵者」で、印章は「隆年父」(白文方印)、「第五隆印」(白文回文方印)です。
これは、「斑石(はんせき)」という署名のある介石のごく初期の作例で、介石が師事したという池大雅からの影響などがわずかに感じられますが、全体としてはまだ未熟で、荒削りな印象があります。同時期に活躍していた、桑山玉洲の絵の完成度とは比較になりませんが、とはいえ、介石の画業の出発点を知るうえでは、重要な作例です。
次は、介石が59歳で描いた「那智畳巒図」(和歌山県立博物館蔵)を見て見ましょう。
款記は「那智畳巒図/乙丑四月寫於矮梅居隆」で、印章は「介石隆隆年氏印」(朱文方印)です。
先ほどの初期の「山水図」よりは、かなり画面の構成力が高くなっており、那智という介石が得意とした主題を描いている点でも意義深い作例です。介石は、この絵を描く12年前、47歳のときに、紀伊藩士に取り立てられ、紀州各地を回る地方役人として勤務しました。そうした公務の際に見た那智の風景などを、こうした作例に描いたものと考えられます。
続いて、介石77歳の作である「夏山絳緑図」(和歌山県立博物館蔵)はどうでしょうか。
款記は「文政癸未夏/四月法王右丞/雪裏没骨画/為夏山絳緑図/以似一粲/四碧老人隆」で、
印章は「第五」「隆」(白文楕円連印)、「四碧斎」(朱文長方印)です。
款記には、中国の唐時代の詩人で画家でもあった王維(おうい、701~61)の没骨法(もっこつほう)を用いて描いていると表明しており、没骨法とは、輪郭線を用いず、面的な墨や色の筆致で物の形を描き出すことを指します。この絵では、実際には輪郭線を用いているため、厳密な意味での没骨法ではありませんが、輪郭線に墨を用いず、淡彩で輪郭を縁取ることによって、ぼんやりとした淡い存在感を描き出すことに成功しているといえるでしょう。どうやら、この絵は、介石のかなり実験的な作例であったようで、面的な彩色に対する介石のこだわりがよくうかがえます。
さて最後にご紹介するのは、介石最晩年の80歳のときの大作である「山水図屏風」(和歌山県立博物館蔵)です。
右隻(画像は3つに分かれています)
左隻(画像は3つに分かれています)
右隻の款記には「丙戌孟秋写於四碧斎八十癡叟隆」とあり、
印章は「矮梅道者」(朱文方印)、「第五隆印」(朱文方印)、「四碧斎」(朱文長方印)です。
左隻の款記は「文政九年丙戌秋七月落成頃日宿病/既逼眼昏筆鈍醜拙亦酷博々粲々/雙井癡叟介石隆」で、
印章は「矮梅道者」(朱文方印)、「第五隆印」(朱文方印)、「四碧斎」(朱文長方印)です。
亡くなる2年前の作例とは思えないほど、充実した描写で、介石が最晩年まで自らの画風を洗練させていったことがよくわかります。まさに、介石晩年の傑作の一つといえるでしょう。
このように、わずか4点ではありますが、介石の作例を時代順に見てみると、その画力は、晩年になるに従って高まっていったことがうかがえます。早熟だった玉洲とは異なり、介石はどうやら大器晩成型の画家であったようです。介石が紀州の画壇に大きな影響を与えた背景には、こうした介石の長寿と、晩年の優れた作例があったからかもしれません。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト