企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
12回目にご紹介するのは、野際白雪(のぎわはくせつ)です。
野際白雪(のぎわ・はくせつ)
◆生 年:安永2年(1773)
◆没 年:嘉永2年(1849)10月21日
◆享 年:77歳
◆家 系:紀伊藩の御先手同心(おさきてどうしん)である野際三十郎(のぎわさんじゅうろう、生没年未詳)の二男。後に父は浪人となり、白雪は一時、表具屋を営むという
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:野呂介石(のろかいせき、1747~1828)
◆門 人:野際蔡真(のぎわさいしん、1819~71)(養子)
◆流 派:文人画・諸派
◆画 題:山水・花鳥・走獣など
◆別 名:徴・蔡徴・載長・伯亀・石湖・群玉斎・賜玉翁など
◆経 歴:紀伊藩のお抱え絵師。父の野際三十郎は、明和3年(1766)、紀伊藩の御先手同心に登用されるが、後に浪人となる。白雪は、表具屋を営み、古画を学ぶ。その後、紀伊藩士で文人画家の野呂介石に師事し、高弟となる。文政5年(1822)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から紀伊藩士に登用され、「御扶持人並」となる。同年、治宝に御目見を果たし、熨斗目(のしめ)の着用と名字を名乗ることを許される。文政8年(1825)、「御絵御用」を勤め、年々金5両をもらう。同年、「勘定奉行支配小普請格」となる。文政10年(1827)、3人扶持年々銀3枚となる。文政13年(1830)、「御絵師」となり、5人扶持に加増。天保4年(1833)、「西浜御殿御用」出精として「小十人格」となる。弘化2年(1845)、「御番医師格」となり、10人扶持に加増。介石に学びつつも、文人画のみならず、狩野派や四条派風の花鳥画も学んだようで、その画域は広い。治宝の隠居所である西浜御殿(にしはまごてん)の障壁画制作もおこない、治宝から寵愛されたようで、治宝からは多くの御庭焼(おにわやき)などを拝領したとされる。介石没後、介石が生前に語った内容を『介石画話(かいせきがわ)』にまとめた。
◆代表作:大村節斎(おおむらせっさい、1779~1834)賛「柳下群牛図(りゅうかぐんぎゅうず)」(個人蔵)文政11年(1828)、白雪絵付「南紀男山焼(なんきおとこやまやき) 染付梅竹図寸胴水指(そめつけばいちくずずんどうみずさし)」(和歌山県立博物館蔵)文政11年(1828)、「那智懸泉図(なちけんせんず)」(和歌山県立博物館蔵)、「花鳥図」(和歌山県立博物館蔵)、「富岳図(ふがくず)」(和歌山県立博物館蔵)、「春景・秋景山水図(しゅんけい・しゅうけいさんすいず)(王蒙・呉鎮筆意(おうもう・ごちんひつい))」(個人蔵)天保13年(1842)など
今回展示している作品をご紹介しましょう。
まずは、「花鳥図」(和歌山県立博物館蔵)。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は左右幅とも「蔡徴」で、印章は左幅が「蔡徴」「伯亀」(白文連印)、右幅が「白雪山樵」(朱文方印)です。
師である介石は、こうした花鳥画をほとんど残していませんが、白雪は、同様の花鳥画や動物画、さらには人物画などをいくつか残しています。白雪は、介石の範疇にとどまらず、さまざまな絵を学んで身につけていった、かなり器用な画家だったようです。
続いて、「松林山水図」(和歌山県立博物館蔵)を見て見ましょう。
款記は「東猪雅彦為/甲辰秋九月朔日白雪時七十有二写」で、印章は「蔡徴」(朱文長方印)です。
こちらは、いかにも介石風の山水画で、松や水流の描き方、人物の配置なども、介石からの影響が顕著にうかがえます。また、全体を浅葱色(あさぎいろ)に染めた絖(ぬめ)という光沢のある裂(きれ)を用いている点も珍しく、下地の素材などにこだわった介石に学んだ成果とも考えられますし、あるいは、白雪自身が表具屋を営んでいたこととも関連があるかもしれません。
最後は、「和歌浦詩画巻」(和歌山県立博物館蔵)。
款記は「戊子冬日写/明光裏図木国蔡徴」で、印章は「蔡徴」「伯亀」(白朱文連印)です。
介石よりは、かなりあっさりとした描写で和歌浦の風景を描いていますが、和歌浦の要所となるポイントは的確に押さえており、少ない筆致の中にも、白雪の高い技量がうかがえます。
いずれにせよ、白雪のこうした広い画域と表現のバリエーションが認められて、紀伊藩のお抱え絵師になったのは間違いないでしょう。介石の画風は、次世代の白雪を通して、さらに紀州画壇の中へ浸透していくこととなったのです。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト