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コラム 紀州の画家紹介 20 崖熊野(きしゆや)

企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
20回目にご紹介するのは、崖熊野(きしゆや)です。
崖熊野(きし・ゆや)
◆生 年:享保19年(1734)
◆没 年:文化10年(1813)8月13日
◆享 年:80歳
◆家 系:和歌山城下の海部郡雑賀(あまぐんさいか)に住み、後に牟婁郡新宮(むろぐんしんぐう)へ移住した、崖次助弘載(きしじすけこうさい、生没年未詳)の三男
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:未詳
◆門 人:崖南嶠(きしなんきょう、1769~1813)(養子)
◆流 派:文人画
◆画 題:山水・花鳥・人物
◆別 名:権兵衛・順輔・弘毅・剛先・剛煥など
◆経 歴:紀伊藩の儒学者、文人画家。当初、和歌山城下の海部郡雑賀に住み、後に牟婁郡新宮へ移住したとされるが、一説には新宮出身で、それゆえ熊野と号したともされる。寛政2年(1790)、学問の才能を認められて、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から紀伊藩の儒学者として登用され、「十人組小寄合格」として講釈場で勤務し、7人扶持をもらう。寛政3年(1791)、子がいなかったため、甥の順蔵(後の崖南嶠)を養子とする。同年、「御城中之間講釈」も命じられる。寛政4年(1792)、10人扶持に加増。寛政10年(1798)、「独礼小普請格」として奥詰となり、切米30石となる。文化3年(1806)、『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』の編纂(へんさん)を命じられる。文化5年(1808)、老年まで勤めたとして「付書院番格」となる。文化8年(1811)、『紀伊続風土記』の編纂事業中断のため、職務を免除。文化10年(1813)、老衰のため勤務を免除され、学校への勤務は自由となる。儒学とともに絵をよくしたが、誰に絵を学んだかは未詳。くせのある筆致や、あくの強い独特の造形表現に特徴がある。伊勢国で活躍した画家で僧侶の月僲(げっせん、1741~1809)などの表現と近いが、影響関係は未詳。
◆代表作:「山水図」(和歌山県立博物館蔵)、「双鶏図(そうけいず)」(和歌山県立博物館蔵)、「乗牛読書図(じょうぎゅうどくしょず)」(和歌山県立博物館蔵)など
以下、今回展示している作品をご紹介しましょう。
まずは、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)です。
崖熊野筆 「山水図」 (和歌山県立博物館蔵) 軽
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
崖熊野筆 「山水図」 款記 (和歌山県立博物館蔵) 軽
款記は「画之中得幾分画之/外山水之間得幾分故田/世人解読有字書不解/読無字書/熊野老人画并題」で、
崖熊野筆 「山水図」 印章1 (和歌山県立博物館蔵) 軽 崖熊野筆 「山水図」 印章2 (和歌山県立博物館蔵) 軽 崖熊野筆 「山水図」 印章3 (和歌山県立博物館蔵) 軽
印章は「弘毅之印」(白文方印)、「剛先」(白文方印)、「名教中有楽地」(白文長方印)です。
熊野が誰に絵を学んだのか、具体的にはよくわかっていませんが、この「山水図」を見る限り、紀州の画家の中では、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746~99)の表現にやや近いといえます。熊野自身は、玉洲よりも10歳以上年配であり、その影響関係については、さらなる検討が必要です。ただ、熊野の養子である崖南嶠は野呂介石(のろかいせき、1747~1828)などとも交流があり、介石は初期の画業で玉洲からの影響を強く受けています。あるいは、熊野も玉洲からの影響を受けたのかもしれません。
一方、次の「乗牛読書図」(和歌山県立博物館蔵)を見てみましょう。
崖熊野筆 「乗牛読書図」 (和歌山県立博物館蔵) 軽
崖熊野筆 「乗牛読書図」 款記 (和歌山県立博物館蔵) 軽
款記は「信手装来三四巻篇章/畢処牛頭転楊公若問/断観画擬答斑擇項羽/伝 熊野老人画并題」で、
崖熊野筆 「乗牛読書図」 印章1 (和歌山県立博物館蔵) 軽 崖熊野筆 「乗牛読書図」 印章2 (和歌山県立博物館蔵) 軽 崖熊野筆 「乗牛読書図」 印章3 (和歌山県立博物館蔵) 軽
印章は「弘毅之印」(白文方印)、「剛先」(白文方印)、「名教中有楽地」(白文長方印)です。
こちらの「乗牛読書図」は、中国の唐時代の李密(りみつ、582~618)という人物が、牛に乗って進みながら読書したという伝説に基づいたものです。李密が牛の背中に後ろ向きで座り、巻物を読む場面は、中国の文献にある記述と一致しており、まさに儒学者らしい描写ともいえるでしょう。ただ、この絵の表現は、先ほどの「山水図」と異なり、かなりあくの強い独特の描写となっています。何らかの中国の絵に基づき、それを忠実に模写したとも考えられますが、こうした人物描写は、当時、伊勢で活躍していた月僲(げっせん、1741~1809)という画家であり僧侶でもあった人物の表現に近いようです。現段階では、熊野と月僲との直接の交流は確認できませんが、今後の解明が期待されます。
いずれにせよ、このように熊野はかなり独特な絵を描いた画家です。ただ、作品自体は比較的多く残っていますが、制作年代のわかる作例が少ないため、その画風変遷や、他の画家からの影響関係など、具体的な絵画学習の状況を想定しにくい画家ともいえます。とはいえ、こうした画家の作例を少しずつ位置づけ、それらを結びつけていくことで、紀州の画壇の多様性が、より一層浮かび上がってくるのも事実です。博物館としては、こうした画家の事績の解明や再評価も、重要な使命であると考えています。皆様も、もし、何か情報をお持ちでしたら、ご教示くださりませ。(学芸員 安永拓世)
江戸時代の紀州の画家たち
和歌山県立博物館ウェブサイト

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