企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
24回目にご紹介するのは、松丘(しょうきゅう)です。
松丘(しょうきゅう)
◆生 年:明和2年(1765)
◆没 年:天保4年(1833)2月10日
◆享 年:69歳
◆家 系:和歌山城下にある天年山吹上寺(てんねんさんすいじょうじ)(臨済宗妙心寺派)の11代住職
◆出身地:未詳
◆活躍地:紀伊・京都など
◆師 匠:野呂介石(1747~1828)?
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画・諸派
◆画 題:山水・花鳥・仏画・紫陽花(あじさい)
◆別 名:行慧・圓水・松然・含暉亭・紫陽花和尚など
◆経 歴:僧侶、画家。未詳な点も多いが、和歌山城下にある天年山吹上寺(臨済宗妙心寺派)の11代住職。詩書画をよくし、特に紫陽花の絵を好んで描いたことから、紫陽花和尚とも呼ばれた。江戸時代には、和歌山城下でよく知られた文人僧であったらしく、諸方の文人たちと交流がある。寛政8年(1796)、江戸の文人画家である谷文晁(たにぶんちょう、1763~1840)が、吹上寺を訪問し、同寺の襖絵を描く(同寺は第2次世界大戦の空襲で本堂を焼失し、襖絵は現存しない)。寛政12年(1800)、大坂の文人である木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736~1802)が吹上寺を訪問。文化8年(1811)、豊後国出身の文人画家である田能村竹田(たのむらちくでん、1777~1835)が、吹上寺を訪問。竹田と交流のあった大坂の高津の大仙寺の大麟(だいりん、生没年未詳)は、松丘の僧侶としての兄弟子にあたる。文化9年(1812)、讃岐国出身の文人画家である長町竹石(ながまちちくせき、1757~1806)の7回忌書画展観に作品を出陳する。絵は、紀伊藩士で文人画家の野呂介石に学んだとされ、両者の交流は確認されるものの、松丘は独特な仏画や山水画も残しており、介石からの影響は少ない。手や指を使って絵を描く指頭画(しとうが)の「山水図」や、「六祖図」もよく描いたという。また、晩年には、京都へ出たこともあったようで、京都の画家である山口素絢(やまぐちそけん、1759~1818)の絵に賛をした作例や、京都画壇の影響を受けた四条派風の作例も確認できる。一方、詩人や書家としても著名で、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)の別邸である西浜御殿(にしはまごてん)にあった製陶所(せいとうしょ)の扁額「河濱支流(かひんしりゅう)」は、松丘の書であったことが記録に残る。
◆代表作:「紫陽花図(あじさいず)」(個人蔵)文化9年(1812)、「般若心経文字描観音図(はんにゃしんぎょうもじがきかんのんず)」(個人蔵)、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示している作品をご紹介しましょう。
まずは、「山水図」(和歌山県立博物館蔵)。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「松丘写」で、印章は「松」「丘」(朱文楕円連印)、「詩画禅」(朱文長方印)です。
極端に縦長の画面の中に、蛇行するような山水を描いており、独特の形態感覚を持っていることがうかがえます。こうした形態や、横長の筆触を山肌に何度も重ねる表現などは、松丘とも交流のあった木村蒹葭堂をはじめ、岡田米山人(おかだべいさんじん、1744~1820)といったような、大坂画壇とのかかわりを感じさせます。
一方、もう一つの展示作品は、松丘が最も得意とした画題である「紫陽花図」(和歌山県立博物館蔵)です。
左上の漢詩は松丘自作の七言絶句とみられ、「林間日々緑陰加/杜宇啼時雨若麻/遮莫春光芳己尽/仙園賞在紫陽花/松丘道人併題」と書かれています。
印章は「含暉亭主」(白文方印)、「松丘」(朱文左右龍郭印)、「幻華空化」(朱文長方印)です。
岩の形態には、やはり先ほどの「山水図」と同様のねじれるような独特の形態感覚がありますが、この絵でとりわけ興味深いのは、紫陽花の花の描き方でしょう。
紫陽花の花弁を一枚ずつ描くのではなく、まるで一筆描きや筆遊びのように、グルグルと筆線をずらしながら重ねることによって、結果的に紫陽花の花の形を描き出している点は、あたかも抽象画を見るような印象すらあります。抽象と具象のはざまで描き出されていく紫陽花の絵は、まさに、松丘らしい筆致と形態感覚をあらわしているといえるでしょう。
この松丘は、今はほとんど知られていない紀州の画家の一人ですが、とりわけ面白い絵を描いた画家です。こうした画家たちの活動や作品は、もっと評価されてもよいのかもしれません。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト