企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
25回目にご紹介するのは、諏訪鵞湖(すわがこ)です。
諏訪鵞湖(すわ・がこ)
◆生 年:明和元年(1764)
◆没 年:嘉永2年(1849)10月26日
◆享 年:86歳
◆家 系:岡本小平太道率(おかもとこへいたどうりつ、生没年未詳)の二男。後に、江戸の紀伊藩士である諏訪新左衛門親次(すわしんざえもんおやつぐ、1744~71)の養子となる。
◆出身地:江戸
◆活躍地:江戸・紀伊
◆師 匠:未詳
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画
◆画 題:山水
◆別 名:兼次郎・維諶など
◆経 歴:紀伊藩士、文人画家。明和8年(1771)、養父の跡を継ぎ「大御番格小普請」となり、15石をもらう。その後、いくつかの役職を経て、「小十人格」となり、40石に加増された。絵をよくしたことから、文化11年(1814)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)に同行して紀州へ行った際、熊野を遊歴し、那智滝を模写する。また、藩主の命を受けて富士山へ登り、その景観を模写して藩主に献上した。だが、当時、武士の身分では富士山に登れず、藩内で富士山に登ったのは鵞湖のみであったため、献上した絵は紀伊藩の宝庫にあるものの、この件は内命に属すとして諏訪家の家譜などには記録されなかったという。なお、同じく江戸の紀伊藩士で儒学者の菊池西皐(きくちせいこう、1769~1813)が著し、天保14年(1843)に刊行された『三山紀略(さんざんきりゃく)』には、鵞湖が描いた那智滝の挿絵と、江戸の文人画家である谷文晁(たにぶんちょう、1763~1840)が描いた熊野川の挿絵が載る。鵞湖が、誰に絵を学んだのかは未詳だが、こうした経緯から考えて、文晁と何らかの交流があったのではないかと想像される。
◆代表作:「熊野那智山瀑布図(くまのなちさんばくふず)」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示しているのは、鵞湖の代表作である「熊野那智山瀑布図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「熊野那智山瀑布/鵞湖諶写」で、印章は「原諶」(白文方印)、「子誠」(朱文方印)です。
画風には、やや未熟な面もありますが、那智滝周辺の岩肌の質感を示すかすれた筆致などは、かなり繊細に岩の面を描き出しており、文人画らしい画風や描法に精通していたことをうかがわせます。現在は、あまり作品の残っていない画家ですが、経歴によると、徳川治宝からは高く評価されていたようです。鵞湖が藩主の命によって富士山に登って描いたという藩主への献上画などが、今後、見つかることを期待したいと思います。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト