慶長8年(1603)、頼宣は2歳で水戸城主となり、8歳で駿府城主となりました。
徳川頼宣像 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号3〕
この間、頼宣は父・家康から、家康自身の家臣(「御付」衆)が分与され、家臣団の中核をなしていました。
徳川家康像 紀州東照宮蔵 〔展示番号1〕
そのなかでも最も有力な家臣が、のちに付家老と呼ばれる安藤・水野・三浦・久野の4家で、石高・格式で群を抜いていました。
安藤直次像 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号4〕
元和2年(1616)、家康が死去した際にも義直(尾張)、頼宣、頼房(水戸)の3人には、財産分与とともに、家臣の「人分け」も行われました。
頼宣は紀伊藩主となった元和5年以降も、新たな家臣を召し抱えています。
元和7年、頼宣は和歌浦に東照社(東照宮)を造営します。
相撲図絵馬 紀州東照宮蔵 〔展示番号2〕
このとき普請奉行を勤めたのは安藤直次と彦坂光正で、家臣たちが寄進した石灯籠は今も参道沿いに建っています。
絵はがき(喜多村進コレクション) 和歌山県立博物館蔵
つづく
現在、和歌山県立博物館では企画展「紀伊徳川家の家臣たちⅡ」を開催しています。ご来館をお待ちしています。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たちⅡ」