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コラム 高山寺の文化財(5) 浦宏の考古学研究

高山寺蔵骨器 高山寺鉄鉢 画像クリックで拡大します。
左:蔵骨器(丸橋丘火葬墓出土) 右:鉄鉢(丸山古墳出土) )


浦宏の考古学研究


 昭和初年ころから、田辺地域では民間の研究者による考古学の調査・研究が行われるようになり、昭和6(1931)年には、湊村の元村長で文物に造詣の深かった佐山伝右衛門を会長として、紀南考古学会が設立された。佐山のほか、細尾栄一・竹中仁一・中村兵助・浦宏といった会の中心的なメンバーは、岩倉山遺跡・三栖廃寺・下芳養遺跡などの重要な遺跡を調査し、さらに昭和13年9月?11月には、高山寺の境内において、全国的に有名になった高山寺貝塚(縄文時代早期?約8000年前)を発掘している。
 そのメンバーの一人であった浦宏は、郷土の考古学的探求に貢献するために、雑誌『紀伊考古』を発行して、同志に研究発表の場や研究動向の情報を提供するとともに、自らも広く調査・収集活動を行っている。浦は、原豊次郎の経済的支援を得て、「原(はら)古代文化研究所」の専任研究員として田辺地域を中心とした考古学の調査・研究に没頭した。
 太平洋戦争の末期には、田辺でも空襲の被害が予想されたため、原古代文化研究所に収集された多くの出土遺物や学術資料は、浦の養子先となった上富田町岩田の小倉家に疎開され、その後一括して高山寺に収められることになる。
 高山寺に残されているこれらの資料は、伊勢田進氏らによって整理され、今日まで伝わってきたものであるが、前述した遺跡のほか、綱不知遺跡(白浜町)・丸山古墳(紀の川市貴志川町)・丸橋丘火葬墓(田辺市)・高野山奥ノ院経塚(高野町)などから出土した、県内外の重要な遺物が含まれている。浦宏による未発表原稿・図面・写真アルバム・拓本類などとともに、再評価・再検討が求められよう。
 これまで5回にわたって紹介してきたように、高山寺には非常に多種多様な文化財が収められている。一つの要因として、その立地などから推測するに、高山寺が田辺の人々の「拠りどころ」のような存在であったためではないかと考えられる。今なお多くの謎も残されており、今後とも高山寺の実像について迫ってゆくことが必要であろう。(学芸課長竹中康彦)
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特別展 田辺・高山寺の文化財
和歌山県立博物館ウェブサイト 

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