今回のコラムでは、古沢厳島神社(こさわいつくしまじんじゃ)と、そこで見つかった能装束についてご紹介しましょう。
古沢厳島神社は、高野山の麓(ふもと)、高野山への参詣道の途中にあたる、和歌山県九度山町上古沢(くどやまちょうかみこさわ)に位置する神社です。
全国的に知られた大きな神社ではありませんが、古くから、高野山と深いかかわりをもってきた神社です。
その名の通り、厳島明神をまつっていますが、この厳島明神は、高野明神(こうやみょうじん・たかのみょうじん)、丹生明神(にうみょうじん)、気比明神(けひみょうじん)とともに、高野山の鎮守である丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)でまつられた高野四所明神(こうやししょみょうじん)の一つであり、その意味でも高野山との強い関連性がうかがえます。
この古沢厳島神社で、平成14年(2002)に、大きな発見がありました。
それは、芸能道具を記した慶長15年(1610)の年紀がある「古佐布色衆之道具の日記(こさわしきしゅのどうぐのにっき)」という目録と、桃山時代のものを含む古い芸能装束が新しく見つかったことです。
[古佐布色衆之道具の日記 古沢厳島神社蔵]
従来から、古沢厳島神社には10面の猿楽面(さるがくめん)が伝わっているのが知られていましたし、江戸時代以前の記録には、古沢厳島神社に「舞台」があったようですので、そこで何らかの芸能がおこなわれていたと推測されてきましたが、今回の発見は、そうした推測を裏付けることとなりました。
[悪尉(猿楽面のうち) 古沢厳島神社蔵]
また、発見された芸能装束のうち、4点の能装束は、桃山時代の制作と考えられることから、作例の少ない桃山時代の芸能装束や、高野山の麓における神事芸能の解明につながる点で、とても重要な発見となったのです。
こうした装束の重要性が評価されて、平成17年(2005)には、4点の能装束が国の重要文化財に指定されました。
ところが、これらの能装束は、長い年月による劣化で、各所に傷みがあったため、貴重な文化財を後世へ伝えるという目的から、全面的な修理がおこなわれたのです。
そもそも染織品は、日本の文化財の中で、最も弱く、傷みやすいものといえます。なぜなら、多くの染織品は、年月による劣化や虫食いの影響を受けやすい絹が使われ、また、消耗品である衣服として用いられるからです。
こうした染織品は、修理にも膨大な時間と費用がかかります。染織品の修理は、それぞれの資料にあわせて糸の太さや染める色を決め、補修するための新しい裂を織る作業からはじまります。その後、丁寧に仕立て糸をほどき、解体して修理をおこない、修理を終えると、再び同じ針穴に糸を通して仕立て直されるのです。まさに気の遠くなるような作業といえます。
今回の古沢厳島神社の能装束の修理も、平成20年(2008)から約2年間をかけて地道な作業がおこなわれ、能装束は再び美しい姿でよみがえりました。膨大な費用をともなう修理事業は、国・和歌山県・九度山町・古沢厳島神社・同神社の氏子や地域の人々・修理に携わる人々など、さまざまな組織と人々の支援と協力により、はじめて実現したといえるでしょう。
[萌葱地唐花尾長鳥文様繡狩衣 古沢厳島神社蔵 (前期展示)]
[紺地唐花尾長鳥文様繡狩衣 古沢厳島神社蔵 (後期展示)]
この「萌葱地唐花尾長鳥文様繡狩衣(もえぎじからはなおながどりもんようぬいかりぎぬ)」(前期展示)や「紺地唐花尾長鳥文様繡狩衣(こんじからはなおながどりもんようぬいかりぎぬ)」(後期展示)も、今回の修理でよみがえった能装束の一つです。いずれも、全体に刺繡で文様が施されている点が大きな特徴で、こうした能狩衣は、全国的にも非常に珍しく、桃山時代から江戸時代初期の一時期の作例しか知られていません。今回の修理では、裂(きれ)の裏側に糸を回さないようにした「渡し繡(わたしぬい)」という刺繡技法の使用が確認され、桃山時代の作例であることが裏付けられました。また、傷みのひどかった裏地はすべて新しい裂に変えました。
[黄地花菱文綾法被 古沢厳島神社蔵 (後期展示)]
また、「黄地花菱文綾法被(きじはなびしもんあやはっぴ)」(後期展示)は、体の正面に衽(おくみ)という斜めの裂がついており、こうした形状は桃山時代ごろに制作された初期の法被のみにみられる特徴です。今回の修理では、襟(えり)の裏に一部のみ残されていた紫色の裂を参考に、全体に新しい紫色の裏地の裂をつけました。
ところで、今回の能装束の発見により、古沢厳島神社では桃山時代以前から能がおこなわれていたことが明らかとなったわけですが、400年の時を経て能装束が守られてきた背景には、芸能の場で毎年定期的に使用されると同時に、次の年の使用に備えて点検・修理されてきたことが挙げられます。
古沢厳島神社の能は、明治時代以降に廃れたようですが、今回の修理は、能装束を後世に伝えるという大きな役目を果たしました。古沢厳島神社の能装束は、芸能という場を通して、また、修理という人々の努力によって、さまざまなかたちで守られてきたともいえるのです。(学芸員 安永拓世)
→特別展 華麗なる紀州の装い
→和歌山県立博物館ウェブサイト