今回は、古文書(こもんじょ)に押されたハンコについてご紹介しましょう。
古い時代の日本におけるハンコは、中国の影響でもたらされ、国や地域の公文書に公印(こういん)として押されました。そのため、文書が改変されたりしないように、文字が書かれた部分全てにハンコを押した例もあります。
しかし、こうしたハンコは公式の場で用いられる特別なものであったため、一般にはあまり普及せず、個人がハンコを持ったり使ったりすることは少なかったようです。
その結果、中世までは「花押(かおう)」というサインの一種が、自署の証明となりました。
(花押の例)
しかし、中世の終わりごろになると、個人にもハンコが普及しはじめ、武将などがハンコを使うようになります。
一方、ハンコを持たない庶民は、筆の軸の後ろをハンコ代わりに押した「筆印(ふでいん)」を使ったりもしました。
(筆印の例)
また、こうした古文書に押されたハンコには、朱印(しゅいん)と黒印(こくいん)があり、
(黒印の例)
朱印の方が格式の高いハンコとされました。
次に紹介する文書は、徳川家康(とくがわいえやす、1542-1616)が家臣に領地を与えたときに発行された文書で、家康の朱印が押されています。
徳川家康領地朱印状(とくがわいえやすりょうちしゅいんじょう)
(芦川家文書(あしかわけもんじょ)のうち)
紙本墨書
縦46.0㎝ 横63.5㎝
慶長11年(1606)
和歌山県立博物館蔵
この文書は、徳川家康が芦川甚五兵衛公吉(あしかわじんごべえきみよし)に常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)にある200石の領地を与えた記録です。
のちに紀伊藩主となる徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602-71)は、慶長8年(1603)に家康から常陸国20万石を与えられました。そのとき、頼宣の家臣団を強化するために、家康の家臣が頼宣に付けられています。芦川家もそうした家臣の一つです。
日付の下に押されているのが家康のハンコで、「恕家康(じょいえやす)」と彫られています。「恕(じょ)」とは「許す」という意味で、家康はハンコによく「恕」の字を使いました。
こうしたハンコが押されていることにより、家康がたしかに領地を与えたという証拠となったのです。
【翻字】
常陸国那賀郡之内柳津村之内百石、
上国井村之内九拾石、中根村之内拾石、合
弐百石、右宛行訖、全可領知者也
慶長拾一年二月廿四日「恕家康」(陽文重郭楕円印)
蘆川甚五兵衛とのへ
このような、個人が使用するハンコは、江戸時代に入ると急速に広まり、庶民も個人のハンコを使うようになっていきました。
古文書に押されたハンコを通して、自署や、その証明の歴史を見てみるのも、おもしろいのではないでしょうか。(学芸員 安永拓世)
→企画展 ハンコって何?
→和歌山県立博物館ウェブサイト