紀伊藩初代藩主の徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602~71)は、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の10男として慶長7年(1602)に伏見城で生まれました。家康晩年の子であったため、家康からことのほか愛され、慶長8年(1603)には、わずか2歳で水戸(みと、現在の茨城県水戸市)20万石を与えられましたが、実際には、水戸へ入らず、家康とともに伏見城や江戸城で過ごしました。慶長11年(1606)に、家康とともに京都へ上り、5歳で元服。同年、駿府(すんぷ、現在の静岡県静岡市)50万石に転封(てんぽう)となり、駿府城に入って家康のもとで育ちました。その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、弱冠13歳(以下、年齢はすべて数え年)にして初陣(ういじん)を飾り、翌年の大坂夏の陣にも出陣しています。
[徳川頼宣像 部分 (和歌山県立博物館蔵)]
ところが、この頼宣を愛情深く育てた家康は、元和2年(1616)4月17日に駿府城で亡くなりました。当時15歳の頼宣は、家康とともに駿府城にあり、最後まで家康のそば近くに仕えたわけです。
ともあれ、家康が亡くなった当時、駿府城にあった膨大(ぼうだい)な家康の遺産や遺品の多くは、家康本人の遺志により、9男である尾張(おわり)の徳川義直(とくがわよしなお、1600~50)と、10男である駿府の頼宣、そして11男である水戸の徳川頼房(とくがわよりふさ、1603~61)との、いわゆるのちの「御三家(ごさんけ)」に分けられたです。
こうして分けられた家康の遺品について、尾張徳川家と水戸徳川家には、その台帳ともいうべき「尾張家本 駿府御分物帳(おわりけぼん すんぷおわけものちょう)」と「水戸家本 駿府御分物帳(みとけぼん すんぷおわけものちょう)」が残されており、現在、徳川美術館や徳川博物館に残されている資料との照合が可能となります。しかし、紀伊徳川家の場合には、そうした台帳に類するものが、現状では確認されていません。これは、おそらく、先の「駿府御分物帳」が、単なる台帳ではなく、家康の遺品を間違いなく受け取ったことを示す「受取帳」の役割を果たしたものであり、駿府城から遺品の移動をともなった尾張家と水戸家の場合のみ、この受取帳が作成されたからであろうと考えられています。すなわち、家康の遺産が分けられた元和2年(1616)から同4年(1618)にかけて、同じ駿府におり、家康の遺品を移動する必要がなかった頼宣の場合には、こうした台帳そのものが作成されなかった可能性が高いとみられるのです。
このようにして、駿府で家康からの遺品を受け継いだ頼宣ですが、その後、元和5年(1619)に転封となり、駿府を離れて紀伊へ入国します。家康の遺品も、このとき和歌山へ移動したと思われますが、その際の資料も残されていないため、紀伊徳川家伝来の家康の遺品は、同時代の資料上で伝来を確認することが意外にも難しいのです。
そうした中にあって、紀伊徳川家へ伝来した家康の遺品で、もっとも由緒正しい伝来経緯をたどったとみられるのが、紀州東照宮へ残されている資料といえるでしょう。というのも、頼宣は、紀伊入国の翌年にあたる元和7年(1621)に、早速、家康をまつる紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)を和歌浦へ建立しており、その後、家康の遺品の一部を神宝として紀州東照宮へ奉納したからです。
[紀州東照宮社殿]
この紀州東照宮へ奉納された家康の遺品についても、やはり、同時代資料からその伝来を明らかにできませんが、紀州東照宮に残されている明治41年(1908)に作成された「神社財産登録台帳(じんじゃざいさんとうろくだいちょう)」の記載が、一つの参考となります。すなわち、同台帳には、資料の名称とともに、伝来などに関する記事が簡潔に記されており、貴重な情報を提供してくれるのです。
そもそも「神社財産登録台帳」とは、明治41年(1908)3月公布の「神社財産に関する法律」、および同年7月公布の「神社財産の登録に関する勅令」によって作成されたもので、これらの法律は、明治の神道国教化政策に基づいて神社の宝物を国の管理下に登録し、その処分や売買を禁じる内容でした。こうした法律自体は、第二次世界大戦後に廃止となったものの、全国各地の神社では、このときに作成された台帳が、宝物台帳としての役割を担いながら、今日まで残されてきている例も少なくありません。
実は、紀州東照宮にも、同様の台帳が、もう一つ残されており、同じく貴重な伝来情報を提供してくれています。それは、大正6年(1917)に紀州東照宮へ合祀(ごうし)された南龍神社(なんりゅうじんじゃ)の「神社財産登録申請書」です。
南龍神社とは、南龍公(なんりゅうこう)とも呼ばれた頼宣をまつる神社で、頼宣を慕う和歌山県内の旧紀伊藩士などの呼びかけにより、明治8年(1875)に創建されました。この南龍神社の由緒については不明な点が多いものの、その社地は、江戸時代に紀州東照宮の別当寺院(べっとうじいん)であった雲蓋院(うんがいいん、別名を天曜寺(てんようじ))が所在した場所であり、雲蓋院には頼宣の御霊屋(みたまや)があったことから、あるいは、この御霊屋が南龍神社の前身になった可能性も考えられます。
いずれにせよ、かかる二つの「神社財産登録台帳」により、紀州東照宮に残されている資料の多様な伝来経緯が明らかになる点は、きわめて意義深いといえるでしょう。すなわち、これらの台帳によると、家康や頼宣所用とされる資料は、大別して以下の三種の伝来ルートに分けられるのです。
第一は、もと家康の所用品であり、年月日は不明ながら、いずれかの段階で頼宣が紀州東照宮へ奉納したもの。
[紺地宝尽小紋小袖] [藍地花菱唐草文散絞小袖]
第二は、江戸の徳川将軍家より紀伊徳川家が拝領したものを、明治4年(1871)5月に旧紀伊藩主の徳川茂承(とくがわもちつぐ、1844~1906)が紀州東照宮へ奉納したもの。
[白地葵紋綾小袖] [萌葱地葵紋散金襴狩衣]
[蜀江錦法被] [白地紗綾葵紋繡腰帯]
[牡丹唐草文金華山裂口覆 楊柳] [牡丹唐草文金華山裂口覆 華山]
第三は、頼宣が初陣のときに着用したとされる「縹糸威胴丸具足(はなだいとおどしどうまるぐそく)」とともに、鎧櫃(よろいびつ)の中に一括で収められて紀伊徳川家へ伝来し、それを明治9年(1876)に旧紀伊藩主の徳川茂承が南龍神社へ奉納したものです。
[紅地桃文様金糸入繻珍陣羽織] [白地雲文緞子鎧下着]
[白地雲文緞子襞襟] [赤地紗綾縮緬襞襟] [白地牡丹唐草文緞子襞襟]
[茶麻地葵の葉散小紋鎧下着] [赤茶麻地牡丹唐草小紋鎧下着]
もちろん、こうした台帳の記述が、何に基づくものなのか、現段階では不明ですが、現存する資料の制作時期や、その特徴などを考え合わせても、この伝来経緯は、かなり信憑性(しんぴょうせい)が高いといえます。
同様の状況は、紀州東照宮に限らず、他の神社の「神社財産登録台帳」にもあてはまるようで、明治政府へ提出した登録台帳であるだけに、その記載は、ある程度の真実を伝えているとみられるのです。
明治時代に作成されたものとはいえ、比較的身近な台帳が語り始める資料の伝来史に、私たちは、もっと真摯(しんし)に耳を傾けるべきなのかもしれません。(学芸員 安永拓世)
→特別展 華麗なる紀州の装い
→和歌山県立博物館ウェブサイト