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コラム「葛城修験の聖地・中津川行者堂の役行者像」

コラム「葛城修験の聖地・中津川行者堂の役行者像」
 日本では古くから、高い山や険しい山、美しい山などは神々が宿る神聖な場所であると考えられた。山を聖地とみなすこうした信仰を元にして、仏教や道教の教えも影響してかたちづくられた宗教の枠組みが修験道(しゅげんどう)である。
 修験道では、霊山に分け入って修行し、大自然の中で心身を浄化し、そして再生して、超自然的な力である験力(げんりき)を身につけることを目的とする。修行により験力を得たものを修験者とよび、険しい山を伏すように進むようすから山伏(やまぶし)ともよばれた。
 そうした修験道の祖として位置づけられているのが役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(おづぬ))である。『続日本紀』という日本の正史には、文武天皇3年(699)5月24日条に、役小角が人々を惑わしているという嘘の訴えにより伊豆に配流されたこととともに、役小角が葛城山で修行する呪術者で、鬼神を自由に使って水を汲み薪を採らせ、命令に従わないときには呪縛したというエピソードを載せている。
 役行者ゆかりの葛城山系は、大阪・和歌山・奈良にまたがる和泉山脈と金剛山地の総称で、この葛城の山々をめぐる修行のことを葛城修験という。中でも特に重要な聖地として位置づけられてきたのが紀の川市中津川の中津川行者堂と熊野神社で、今でも毎年春に、京都・聖護院の修験者たちによって野外に大きな護摩壇を組んで火を燃やす採燈護摩(さいとうごま)が行われている。
 この中津川行者堂に、役行者とそれに従う二匹の鬼を表した像がある。役行者は長頭巾(ちょうときん)をかぶり、蓑をまとって、岩に腰を降ろした姿に造られ、また験力によって鬼神を使役したエピソードから、斧を持った前鬼(ぜんき)と水瓶をもった後鬼(ごき)の二匹の鬼が行者に従ってひざまづいている(前後鬼の持物は現在は失われている)。
 行者像は、顔中にしわがあり、長いあごひげを生やした老人の風貌であるが、目だけに笑みを浮かべた不思議な表情である。こうした表情の行者像は室町時代の作例に類例があって、本像の制作時期もそのころと見られる。
 実は中津川行者堂には、本尊像としてまつられてきた役行者及び前後鬼像がもう一組あったが、昨年8月に盗難の被害を受け失われた。中央の行者像のみは、幸いにも今年5月に所在が確認されたが、脇に従う前鬼と後鬼像はいまだ発見されていない。企画展「葛城修験の聖地・中津川行者堂の文化財」(~7/18)では、中津川で育まれてきた修験道文化に関わる多数の文化財とともに、こうした盗難被害を受けた行者堂の文化財についてもご紹介している。文化財を失うことは、歴史を失うことと同義である。盗難文化財の行方についてご存じのことがあれば、県立博物館までお教えいただければ幸いである。(学芸員 大河内智之)
中津川役行者像
【役行者及び前後鬼像 役行者像 52.3cm 前鬼像 24.5cm 後鬼像 24.7cm 室町時代】盗まれた役行者像
【盗まれた役行者及び前後鬼像。中央の役行者のみ5/19に所在確認されたが、前鬼・後鬼像は未発見である。】
企画展「葛城修験の聖地・中津川行者堂の文化財」
盗難被害を受けた中津川行者堂の仏像
和歌山県立博物館ウェブサイト

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