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コラム「野呂介石の生涯」1

現在、博物館で開催中の「野呂介石」展ですが、
みなさんは、野呂介石という画家をご存じでしょうか?
江戸時代には、紀州のみならず、全国的によく知られた文人画家でしたし、現在でも和歌山では、紀州三大文人画家の一人として、名前は比較的知られているようです。
けれども、その生涯や画風については、いまいちよくわからないという方も多いのではないでしょうか。
また、野呂介石について、少し、調べてみようと思っても、簡単な本や伝記も、それほど多くはありません。
そこで、今回の特別展のコラムでは、野呂介石の生涯について、展示の構成にしたがって、10回にわたって紹介しようと思います。
今の段階では、くわしくわかっていないこともありますが、この10回分をざっと読めば、介石の生涯や生き方が、ある程度わかるのではないでしょうか。
今日は、第1回ということで、若いころの介石が、学問や絵を学んだ状況について、ご紹介しましょう。
1 学画(がくが)―鶴亭(かくてい)と池大雅(いけのたいが)
野呂介石像(部分) 宮本君山筆(護念寺蔵)軽 (画像クリックで拡大します)
野呂介石像(部分) 宮本君山筆 (護念寺蔵)
 和歌山城下の富裕な町人の家に生まれた介石は、若くから学問をよくしたようです。はじめは、紀伊藩の儒学者(じゅがくしゃ)であった伊藤蘭嵎(いとうらんぐう、1694-1778)について儒学を学びました。そうした時期の状況について、くわしくはわかっていませんが、介石は、蘭嵎に対して強い尊敬の念を持ち続けていたようですし、また、蘭嵎が使用していた印や刀を、後に介石が入手して使ったという逸話も残されています。
 一方、介石が本格的に絵を学ぶようになったのは、14歳で京都へ出てからのことと考えられます。介石が晩年に語った話を、その弟子が記したとされる「介石画話(かいせきがわ)」などには、墨竹(ぼくちく)を好み、中国の絵を見て練習したものの、上達しなかったので、鶴亭(かくてい、1722-85)という黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶に絵を学んだことが記されています。その後、21歳の時には、当時の京都で最も有名な画家であった池大雅(いけのたいが、1723-76)に師事し、画家の基礎となる部分を学んだようです。鶴亭も大雅も、当時の関西では最もよく知られていた画家ですから、師匠としてはあまりに偉大だったわけですが、介石は彼らからその絵画表現や技法とともに、画家としてのエッセンスを吸収したといえるでしょう。(学芸員 安永拓世)
特別展 野呂介石
和歌山県立博物館ウェブサイト

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