「桑山玉洲のアトリエ」展のコラム10回目です。
今回のコラムでは、このたびの展覧会の直前に発見され、白浜の奇勝を描いた資料としても大変貴重な「鉛山勝概図巻」をご紹介しましょう。
鉛山勝概図巻 桑山玉洲筆
(かなやましょうがいずかん くわやまぎょくしゅうひつ)
紙本墨画淡彩 1巻 縦33.3㎝ 横525.9㎝
寛政5年(1793) 玉洲48歳 個人蔵
この画巻は、ごく最近、新たに発見されたもので、今回が展覧会での初公開となります。
鉛山(かなやま)とは、現在の和歌山県白浜町の湯崎(ゆざき)から瀬戸(せと)付近を指す地名で、湯崎温泉(鉛山温泉)を中心に栄えた地域です。この湯崎から瀬戸にかけての海岸線には、三段壁(さんだんべき)や千畳敷(せんじょうじき)をはじめ白良浜(しららはま)や円月島(えんげつとう)など、険しい岩場や浸食岩(しんしょくがん)、美しい砂浜や特異な形の島などの奇勝が数多く存在し、独特の自然景観を作り出しています。この絵は、その鉛山の奇勝を描いた画巻で、玉洲が描いた紀州ならではの真景図としても、きわめて意義深いものです。
描かれている奇勝には、墨書銘などがないため、図様や位置関係から推定するしかありません。ひとまず、描かれている奇勝を巻頭から順に検討していきます。
まず、冒頭には、絵とは別の紙に、「鉛山勝概図」という題字、すなわちこの絵のタイトルが書かれています。書いたのは、玉洲よりも後の時代に活躍した倉田績(くらたいさお、1827~1919)という人物です。
さて、絵の描かれた本紙の方を見てみると、まず、最初に登場する海中に切り立った岸壁は「三段壁(さんだんべき)」です。
続いて海中にせり出した雲のような形の岩場が「千畳敷(せんじょうじき)」でしょう。
その先にある海辺の家屋が「崎の湯(さきのゆ)」という温泉で、すぐ脇にある家屋が「元湯(もとゆ)」のようです。しばらく進んで家屋が密集した地域が「湯崎(ゆざき)」という村、その湯崎から山へ登ったところに見える堂舎が、「金徳寺(こんとくじ)」あるいは「山神社(さんじんじゃ)(温泉神社(おんせんじんじゃ))」かもしれません。
さらに小さな岬を越えた先にある美しい白い砂浜が「白良浜(しららはま)」で、白良浜の左端にあるやや目立つ堂舎が「熊野三所神社(くまのさんしょじんじゃ)」。ついで、やや遠方へと広がる家々が「瀬戸(せと)」の村で、その湾の前にあるアーチ状の岩がどうやら「円月島(えんげつとう)(高嶋(たかしま))」のようです。
円月島の近景にある低く細長い島が「四双島(しそうじま)」で、白い旗を掲げた家屋の建つ岬が「番所崎(ばんしょざき)」となります。番所崎には紀伊藩の番所が置かれたようなので、旗を掲げた家屋がその番所でしょう。
さて、番所崎の左にある穴のあいた奇妙な形の島ですが、これはおそらく「塔島(とうしま)(唐嶼(とうしま))」とみられます。塔島は現状では崩落してその姿をとどめていないが、かつては三つの穴があったとされます。この絵で四つのように見える穴は、「石門」と呼ばれる別の岩が、左側に重なって描かれているものと考えられます。
一方、塔島の左手に続くなだらかな海岸線は、田辺湾あたりのものとみられ、やや遠くに浮かぶ小島は「畠島(はたけじま)」や「神島(かしま)」でしょうか。
その後、海岸線は一度見えなくなりますが、
再び現れた海岸線が田辺港あたりのものとみられ、立ち並ぶ家屋は田辺の城下町と考えられます。
この城下町で、やや大きく二つ並んだ屋根は、田辺の「浄恩寺」(右)と「西方寺」(左)ではないでしょうか。
巻末には、絵と同じ紙に、再び倉田績の跋文(ばつぶん)が書かれています。
各モチーフを描く筆致は柔らかく、全体におおらかな印象がありますが、主要なモチーフやランドマークは、かなり実景に則した位置に描き込まれており、細やかな配慮が感じられます。一方、彩色も面的で大胆な筆触なのですが、緑青や淡緑、朱や代赭(たいしゃ)や茶、藍(あい)などを淡く施して、奇勝の魅力を瑞々しく描き出しており、とても美しい表現になっています。とりわけ、黄色の使用が印象的で、目の覚めるような鮮やかさがあります。まさにカラリスト玉洲の真骨頂といえる作例です。
ところで、こうした各奇勝の推定とともに興味深いのは、所々に印象的な人物が2名描き込まれていることでしょう。「三段壁」では岩の上から海を指さし、「千畳敷」の上には二人で座り、「崎の湯」ではどうやら温泉を待っているようです。「湯崎」の前では舟に乗り、あるいは村の中を歩き、「塔島」では岩場のごく近くまで舟で漕ぎ寄せています。田辺湾あたりを進む帆船に、船頭とは別に乗っている2名も、どうやら彼らなのでしょう。
これに関連して興味深いのは、この絵の末尾にある玉洲の款記で、「癸丑秋日寫」という年紀から、寛政5年(1793)秋の作であるとわかる点は重要です。実は、この年の2月に、玉洲は、紀伊藩医である今井元方(いまいげんぽう、1768~1819)や、同じく紀伊藩士で名草郡の奉行も勤めた小田仲卿(おだちゅうきょう、龍江、1746~1814)、和歌山城下出身の文人画家である野呂介石(のろかいせき、1747~1828)とともに熊野旅行に出かけているのです。
この旅行の経緯については、翌年に元方が著した「熊野五境図詩草(くまのごきょうずしそう)」(和歌山市立博物館蔵)に詳しく、その目的は元方の湯治にあったらしく、鉛山温泉や二河浦温泉(にこううらおんせん)などを経て最終的には本宮の湯の峯温泉(ゆのみねおんせん)へ至ったようです。ただ、「熊野五境図詩草」は、寛政6年(1794)8月に玉洲が描いた「熊野奇勝図巻」(個人蔵)の序文や解題を記すにあたっての草稿であり、「熊野奇勝図」は、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)へ献上されました。こうした状況から、近年では、4人の熊野旅行の本来の目的は、湯治だけではなく、寛政6年(1794)11月に控えた治宝の熊野巡行のための視察であった可能性が指摘されています。であるならば、この絵も、「熊野奇勝図巻」と対をなす作例という可能性が出てくるわけですが、この絵が治宝に献上されたのかどうかは、さらなる検討が必要です。
いずれにせよ、玉洲はこの絵を描く半年ほど前に、元方とともに鉛山温泉へ湯治に行っており、この名目上の湯治旅行が、この絵の制作契機になったのは、ほぼ間違いないでしょう。
「熊野奇勝図巻」では、元方、仲卿、介石、玉洲を示すような4人の画中人物が描かれているのに対し、この絵では主に2人しか描かれていないのは、あるいは、この絵が元方のみに贈るための、よりプライベートな作例だったからかもしれません。
ちなみに、この絵で最も印象的に描かれている「塔島」は、現状では絵画遺例が少なく、三つの穴が開いていたという石の形状については祇園南海(ぎおんかい、1676~1751)の詩文や文献でしか知られていませんでした。その意味で、この絵は、三つの穴のある「塔島」が描かれた現存最古の絵画作例としても、きわめて貴重であるといえるのです。(学芸員 安永拓世)
→特別展 桑山玉洲のアトリエ―紀州三大文人画家の一人、その制作現場に迫る―
→和歌山県立博物館ウェブサイト