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スポット展示「御付人」と呼ばれた家臣 -芦川氏-

 県立博物館では、博物館の所蔵品を、より多くのみなさまに、広く知っていただきたいという目的から、
2階に「スポット展示」というコーナーを設け、館蔵品を数点取り上げた展示を行っています。このスポット展示は、無料でご覧いただけます。
 今年度は「ちょっとだけ《江戸時代》を知ろう」と題して、城下町和歌山の様子がわかる資料、藩主であった紀伊徳川家やその家臣たちにかかわる資料などから、270年ほど続いた「江戸時代」、江戸(東京)に政治の中心となる幕府が置かれた時代を紹介します。
 スポット展示は、約1か月から2か月ごとに、展示替えをおこないます。

 昨年(2010年)の5月からスタートした「スポット展示」については→こちらをご参照ください。

15回目を迎えた今回のテーマは
「御付人」と呼ばれた家臣 ―芦川氏―
【会期:2011年8月13日(土)~9月16日(金)】

007_20110813193122.jpg(画像をクリックすると拡大します)

  徳川家康の10男である徳川頼宣(よりのぶ)は、慶長8年(1603)、2歳で水戸城主となり、
同14年(1609)、8歳で駿府城主となりました。
 家康は弱体であった頼宣の家臣団を補強するため、自らの家臣を頼宣に付けています。
彼らは「御付人」とも呼ばれ、頼宣の家臣のなかでは最も格の高い家柄とされました。
なかでも、のちに「付家老」と呼ばれた安藤・水野・三浦・久野(くの)の4家は、石高・格式で群を抜いています。
 芦川(あしかわ)家はもとは武田家の遺臣と伝えられ、
公吉(甚五兵衛家・初代)の時、徳川家康・頼宣に召し抱えられました。
元和5年(1619)、頼宣の紀州入国に同行して、1500石の知行が与えられ、
大番頭(おおばんがしら、大番組の頭)を勤めています。
 芦川家に伝来した文書は、平成8年(1996)ご子孫の芦川瀞(きよし)氏から、ご寄贈いただきました。

  以下は、展示資料の解説です。

徳川家康領知朱印状
 (とくがわいえやすりょうちしゅいんじょう)

DSC_0842.jpg(画像をクリックすると拡大します)
   1通
   紙本墨書
   慶長11年(1606)
   縦46.0㎝ 横63.5㎝

  徳川家康が、芦川甚五兵衛(公吉)に常陸国(ひたちのくに)那賀(那珂)郡の柳沢村・
中根村(いずれも、現在のひたちなか市)・上国井村(現在の水戸市)内に知行地200石を与えた朱印状です。
朱印のみで、印文は「源家康」となっています。
料紙は楮(こうぞ)を原料とする檀紙(だんし)で、横線のようなシワが入っているのが特徴です。
 慶長8年、頼宣(よりのぶ)は父・家康から常陸国20万石を与えられます。
この文書から、芦川氏は慶長11年に頼宣の家臣となったことがわかります。
ただ、所領を与える文書(領知朱印状)が領主である頼宣ではなく、家康から発給されている点が注目されます。
家康は、頼宣をまだ独立した領主としては認めていなかったことを示しているといえるでしょう。

芦川家系譜写
 (あしかわけけいふうつし)

DSC_1497.jpg DSC_1493.jpg(画像をクリックすると拡大します)
              (末尾)               (冒頭)
   1冊
   紙本墨書
   寛政10年(1798)
   縦24.4㎝ 横17.0㎝

 寛政年間(1789~1801)、江戸幕府は大名と幕臣の系譜集である
寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)の編纂(へんさん)を行っています。
編纂にあたって、御三家に対して「御付人」の系譜の提出を命じました。
本書は、幕府に提出した芦川家の系譜書の写です。
甚五兵衛公吉の父・市兵衛某(元祖)は武田氏遺臣で、
三男甚五兵衛家の系譜が公昌(5代)まで記されています。
 芦川家は頼宣の紀州入国に同行して、1500石の知行が与えられ、
大番頭(おおばんがしら、大番組の頭)を勤めました。
 大番組は、幕府や御三家などの親藩で軍制組織として設けられた役職で、
非常時の城下の警戒のほか、平時における城下の勤番や参勤交代の藩主の警護などを勤めました。

軍旅につき人馬道具定
 (ぐんりょにつきじんばどうぐさだめ)

DSC_0863_20110809115500.jpg(画像をクリックすると拡大します)
                     (冒頭)
DSC_0867_20110809115603.jpg(画像をクリックすると拡大します)
                    (末尾)
   1通
   紙本墨書
   明暦2年(1656)
   縦28.7㎝ 横282.3㎝

 紀伊藩の橋爪万右衛門が芦川甚五兵衛に対して、
大番頭として軍旅に出すべき人馬数・道具数を打診したものです。
 明暦2年、芦川甚五兵衛は藩主である頼宣とともに江戸に滞在しています。
11月に頼宣は小杉(現在の川崎市)の鷹場に鷹狩りに出かけています。
このことから、「軍旅」とは小杉への鷹狩りを指すのではないかと考えられます。
 総人数は61人で、この数は「軍役にあらす(ず)、自分之志嗜(しし)也」と記されているように、
軍役の規定よりも多かったようです。
 軍事的緊張が緩んできた時期とはいえ、大番頭を勤める芦川氏にとって、
鷹狩りでの人馬や道具などの負担は相当なものであったことがわかります。

 このような解説とともに、資料が展示されています

 博物館の2階は、どなたでも無料でご覧いただけます。
折々、博物館の2階を訪れて、ひと昔前の〝江戸時代〟を感じてみてはいかがでしょうか。

 芦川家文書については、『和歌山県立博物館研究紀要』第2号(1997)の
「紀州藩大番頭芦川家について ―伝来文書からみた紀州藩上級家臣の一断面」で詳しく紹介しています。
なお、『研究紀要』第2号は品切れとなっています。ご了承ください。

  今回のスポット展示は、9月16日(金)までです。

  次回のテーマは、「大坂の陣後に召し抱えられた家臣 ―岡見氏―」を予定しています。
  (主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→これまでのスポット展示

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