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スポット展示「紀伊藩主の別邸 ―西浜御殿と湊御殿―」

 県立博物館では、博物館の所蔵品を、より多くのみなさまに、広く知っていただきたいという目的から、
2階に「スポット展示」というコーナーを設け、館蔵品を数点取り上げた展示を行っています。このスポット展示は、無料でご覧いただけます。
 今年度は「ちょっとだけ《江戸時代》を知ろう」と題して、城下町和歌山の様子がわかる資料、藩主であった紀伊徳川家やその家臣たちにかかわる資料などから、270年ほど続いた「江戸時代」、江戸(東京)に政治の中心となる幕府が置かれた時代を紹介します。
 スポット展示は、約1か月から2か月ごとに、展示替えをおこないます。

 昨年(2010年)の5月からスタートした「スポット展示」については→こちらをご参照ください。

17回目を迎えた今回のテーマは
紀伊藩主の別邸 ―西浜御殿と湊御殿―
【会期:2011年11月5日(土)~12月4日(日)】

今回は、紀伊藩10代藩主徳川治宝と11代藩主徳川斉順の別邸にかかわる資料を展示しました。

DSC_3964_20111104195047.jpg(画像をクリックすると拡大します)

 現在の県立和歌山工業高校付近(和歌山市西浜)にあった西浜御殿(ごてん)は、
紀伊藩10代藩主徳川治宝(はるとみ、1771~1853)の別邸で、文政元年(1818)に完成しました。
 一方、湊御殿(現在の和歌山市湊御殿付近)は、11代藩主斉順(なりゆき、1801~1846)の別邸で、
天保5年(1834)に完成しています。
 治宝は、8代藩主重倫(しげのり)の次男で、寛政元年(1789)に19歳で10代藩主となりました。
文政7年(1824)54歳の時、前年に起こった一揆(いっき)の責任をとって隠居(いんきょ)します。
跡を継いだのは、婿養子(むこうようし)である斉順でした。
斉順は、江戸幕府11代将軍家斉(いえなり)の7男として生まれました。
 「やきもの」といえば、治宝を連想しますが、
斉順も治宝に勝るとも劣らない「やきもの」好きだったようです。

  以下は、展示資料の解説です。

書 眉寿 徳川治宝筆
 (しょ びじゅ とくがわはるとみひつ)

書 眉寿 徳川治宝筆(画像をクリックすると拡大します)
   1幅
   絹本墨書
   江戸時代(19世紀)
   縦35.2㎝ 横28.3㎝

 治宝による隷書(れいしょ)の書幅(しょふく)で、
表装の一文字(いちもんじ)の裂(きれ)には葵(あおい)紋が織り出されています。
 「眉寿」とは、眉(まゆ)が長く白くなるほどの長寿という意味で、
転じて長寿を祝う言葉を意味するようになりました。
この書は、家臣などへの下賜(かし)品のなかに散見されます。
 3つの印が捺(お)されていますが、そのうちの1つが「清和裔/一位/源朝臣」となっています。
治宝が正二位から従一位に昇進するのは天保8年(1837)のことで、
この書はそれ以降に書かれたものとわかります。
 徳川家御三卿(ごさんきょう)の一つで、紀伊徳川家とゆかりの深い田安家旧蔵と伝えられています。
治宝の正室は、江戸幕府10代将軍家治(いえはる)の養女種姫(田安宗武<むねたけ>の娘)でした。

西浜御殿之図
 (にしはまごてんのず)

西浜御殿之図(画像をクリックすると拡大します)
   1枚
   紙本墨画
   江戸時代(19世紀)
   縦78.0㎝ 横54.6㎝

 治宝(はるとみ)は、文政7年(1824)西浜御殿に隠居しますが、
隠居してから亡くなるまでの26年間、隠然たる勢力を持ち続けました。
西浜御殿は、御庭焼(おにわやき)などの治宝の文芸活動の主要な舞台ともなりました。
 西浜には、2代藩主光貞(みつさだ、1626~1705)も御殿を造営しました。
これとは別に、治宝は現在の県立和歌山工業高校付近に御殿を造営しています。
記録に残るだけでも天保5年(1834)、弘化2年(1845)に大規模な増改築が行われたようです。
 この図は天保5年の改築以降の西浜御殿を描いたものとされています。
しかし、南東にあったとされる窯(かま)は描かれていません。
窯場に掲げられたという「河濱支流(かひんしりゅう)」の額名は、敷地の外に記されています。

偕楽園焼 白釉洲浜香合
 (かいらくえんやき はくゆうすはまこうごう)

偕楽園焼 白釉洲浜香合(画像をクリックすると拡大します)
   1合
   陶器製
   文政2年(1819)
   縦7.1㎝ 横8.5㎝ 高3.0㎝

 三つの長い輪を重ねたような形状をした香合です。
香合とは、茶席で焚(た)く香を入れる容器のことです。
 こうした形状は洲浜形と呼ばれ、
浜辺の凸凹(でこぼこ)した形を意匠化したものとされています。
 蓋上中央に「偕樂/園制」(丸印・陽刻銘)が捺(お)され、
身の底面中央には陰刻の花押(かおう)が刻まれています。
 内箱に表千家9代了々斎(りょうりょうさい)の墨書があり、
「己卯(つちのとう)」(文政2年)に余楽庵(治宝の側近である森玄蕃<げんば>の庵号)が手作りし、
楽家10代吉左衛門(旦入<たんにゅう>)が焼いたものであるとわかります。
 この年3月から閏(うるう)4月にかけ、京都の陶工である旦入は了々斎と和歌山を訪れ、
西浜御殿で初めての偕楽園焼を行っています。

清寧軒焼 黒楽輪蓋置
 (せいねいけんやき くろらくわふたおき)

清寧軒焼 黒楽輪蓋置(画像をクリックすると拡大します)
   1口
   陶器製
   天保5年(1834)
   口径(最大)4.4㎝ 高4.0㎝

 黒楽の円筒状の蓋置で、側面中央に「清寧」(丸印・陽刻銘)が捺(お)されています。
宗壏(そうかん)なる人物が記した箱書から、
この蓋置は天保5年初冬に湊御殿で初めて制作された御庭焼の一つで、
常保貴主なる人物へ拝領されたものであることがわかります。
 天保5年、11代藩主徳川斉順が新築なった湊御殿に移ります。
また、この時行われた御庭焼では、京都の陶工である旦入が招かれ、和歌山を訪れました。
湊御殿では、天保13年、同15年にも御庭焼が焼かれています。
 一方、和歌山城内西の丸跡から出土した陶片のなかにも、「清寧」印のあるものが見つかっています。 

 このような解説とともに、資料が展示されています。
 博物館の2階は、どなたでも無料でご覧いただけます。
折々、博物館の2階を訪れて、ひと昔前の〝江戸時代〟を感じてみてはいかがでしょうか。

 西浜御殿は、嘉永5年(1852)治宝が亡くなると、すぐに取り壊されました。
湊御殿も現在残っていませんが、和歌山市西浜にある養翠園(ようすいえん)の敷地内に
一部が移築されています。

  今回のスポット展示は、12月4日(日)までです。

  次回のテーマは、「紀伊徳川家と熊野本宮大社」を予定しています。
  (主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→これまでのスポット展示

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