今回のハンコの基礎知識は、ハンコを彫る篆刻(てんこく)とは何か?ということについて少しご紹介したいと思います。
ハンコの中に使われている文字を読もうとすると、現代のわたしたちからすると、とても読みにくい文字であらわされているのに気づきます。これは、日本のハンコの文字が中国のハンコの文字の影響を強く受けているからです。
中国のハンコには、篆書体(てんしょたい)という、漢字の古い書体が使われました。
篆書体は、現在、わたしたちが主に使っている楷書体(かいしょたい)という書体よりも古く、どちらかといえば象形文字(しょうけいもじ)に近い形です。
この篆書体という書体は、中国の秦(しん)という国が中国を統一した際に、公式書体として使用した書体で、使用する書体を隷書体に統一していくことが、国家としての権力の象徴ともなりました。また、役人などが公式証明に用いる官印(かんいん)などでも、統一して、この篆書体が用いられたため、「公式証明」の象徴ともなったようです。
篆書体そのものは、毛筆でスピーディーに書くには、あまり適さない書体だったため、次第に隷書体(れいしょたい)へと変化していき、あまり使用されなくなっていきましたが、ハンコの中では、「公式証明」の名残として、篆書体が用いられ続けました。
また、中国の宋時代や元時代になり、ハンコの使用や制作、さらにはハンコの鑑賞への関心が高まると、ハンコに用いられる書体として篆書体が重視され、篆書体をハンコに彫る「篆刻」という芸術が書道の一分野として確立していったのです。
ところで、こうした篆刻という芸術は、単に印面に文字を彫りあらわすだけではありません。
印面に文字を配置することは、書道の一種でもありますが、文字のバランスや陽文と陰文のバランスなど、デザイン性もかなり重要な要素となります。
また、以前ご紹介した竜の縁飾りのあるハンコのように、ハンコの中に絵を彫り込むこともあったので、絵画的な要素も必要となります。
さらに、前回のハンコの基礎知識でご紹介したように、ハンコのつまみの部分には、さまざまな飾りが施される場合もあったので、これらには工芸的な技術や知識が求められました。
一方、今回の展示でご紹介しているハンコなどからもわかるように、ハンコには石をはじめ木や金属などさまざまな素材のものがあります。
なかには、水晶や金などといった貴重な素材のものも含まれています。
八田凡夫使用印「享斎(きょうさい)」(陰文方印(いんぶんほういん)) 個人蔵
野呂介于使用印「隆」「忠」(陰文連印) 個人蔵
水晶は、硬く彫りにくい素材ですし、金属製のハンコには、鋳型を作って鋳造(ちゅうぞう)したものもあれば、彫って作ったものもあるようです。
このように、篆刻には、書、絵画、工芸、彫刻などのさまざまな要素と技術が盛り込まれています。
ほんの数センチのハンコの中に、これらの芸術的な要素と才能が、凝縮されているともいえるでしょう。
ところで、ハンコや篆刻の魅力として、もう一つ忘れてはならないのが、くりかえし押すことができるというハンコの持つ連続性です。
押す方のハンコ自体の制作は、まさに一品制作であり、世界に一つしかないハンコです。
ハンコの意義は、まさにそこにあり、いくつも同じハンコがあるようでは、そのハンコが何かを証明する効力を持ちません。
にもかかわらず、ハンコを押した印影は、くりかえし何度でも押すことができるのです。
こうした、二度と同じものが作れないハンコ本体と、何度でもくりかえし押せるハンコの印影という、一見相反する現象が、この小さなハンコから繰り出されているのだと思うと、何だか、数センチのハンコの中に、壮大な小宇宙が隠されているようにも思えてきませんか?
さまざまな、芸術的な要素を凝縮した世界に一つしかないハンコから、永遠に押され続ける印影…。
ハンコの魅力と不思議は、こんなところにもあるような気がしています。(学芸員 安永拓世)
→企画展 ハンコって何?
→和歌山県立博物館ウェブサイト