和歌の浦といえば、葦辺(あしべ)に集う鶴の群れをイメージすることが多い。これは、神亀(じんき)元年(724)10月に和歌の浦に行幸した聖武天皇に同行した山部赤人(やまべのあかひと)が詠んだ「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」という有名な和歌からくるイメージである。
当時、紀ノ川は和歌浦湾に注いでおり、奈良の都を出発し、途中から船で紀ノ川を下った赤人は、広々とした干潟が広がり、浅瀬一面に生い茂る葦とそこに群がる鶴の姿を目にした。
この和歌の浦のイメージが、江戸時代に制作される和歌の浦を描いた名所図屛風の画題にも影響を与え、天満宮を連想させる社殿の前の浅瀬に建つ鳥居周辺には、群生する葦と鶴の姿がよく描かれている。
ところで、和歌の浦を描いた資料を調査するうちに、もう一つ和歌の浦のシンボルになったものがあることに気がついた。それは、葦が生える干潟に生息したシオマネキ(カニ)である。
江戸時代後期の『紀伊国名所図会』には、「獨螯蟹(てぼうがに) ここ(和歌の浦)の浜辺にあり、小蟹(こがに)にして色白く、片爪いたつて大く、足の音すれば穴へ入るなり」と記されている。正確にいえば、ここではシオマネキではなく、同じ仲間のハクセンシオマネキを指しているが、片方の大きな螯(はさみ)を振る行動は、名前の由来ともなった潮を招いているように見えて、当時の人々も珍しく感じたのであろう。
残念ながら、赤人はこの光景を見ることはできなかった。冬眠中だったからである。
和歌の浦で生育した葦の茎(くき)を使用して仕立てた葦辺団扇(だんせん、展示番号22)、和歌祭の練り物の一つである餠搗踊(もちつきおどり)の法被(はっぴ、展示番号32)、崎山利兵衛が開窯(かいよう)した南紀男山焼の花生(はないけ、展示番号33)と菓子鉢(展示番号34)。
江戸時代の資料のなかには、和歌の浦の景観がデザインとして使われるものがあり、シオマネキも登場する。
和歌の浦のシンボルであったシオマネキは、干潟が埋め立てられ、葦原が消滅する大正時代に姿を消した。絶滅直前に和歌の浦の干潟で撮影されたシオマネキの絵はがき(展示番号36)も残っている。
現在、シオマネキは絶滅危惧種となり、種自体が絶滅する危機にある。再び、シオマネキが和歌の浦のシンボルになる日を待ち望みたい。
文中で紹介したシオマネキを描いた資料は、来年1月20日(日)まで開催している企画展「和歌の浦の風景」で展示している。
(『毎日新聞』和歌山版 2012年12月19日25面 に掲載された文章に一部加筆しました)
白木綿地鶴に片葉葦と鉄砲蟹文小袖(しろもめんじつるにかたはのあしとてっぽうがにもんこそで)
1領
資料番号32
白木綿製
丈99.0㎝ 裄47.0㎝
江戸時代後期
紀州東照宮蔵
近年行われた東照宮の宝物調査で発見された小袖。和歌祭の練り物の一つである餠搗踊の法被で、戦前まで使用されていたといわれている。
和歌の浦のシンボルである鶴と葦と鉄砲蟹(シオマネキ)の図柄が、染め抜かれている。
小梅日記には、家康250回忌にあたる慶応元年(1865)に行われた和歌祭に関わる記述のなかで、このとき神輿を初め、餠花踊の衣装、母衣(ほろ)などが新調されたと記している(4月17日条)
(紀ノ川河口に生息しているシオマネキ)
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト