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和歌山の城下町を描いた絵図

本日(11日)午後1時30分から、4回目のミュージアム・トークを行いました。
12人のご参加がありました。
展示資料の紹介 3
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和歌山御城下絵図     一舗  (展示番号14)
 紙本著色 縦99.1㎝ 横81.5㎝
 江戸時代(17世紀)  和歌山県立博物館蔵
 和歌山城下とその周辺を描いた絵図です。裏書には、「和歌山御城図」・「和哥山御城絵図」と記されています。
 全体的に文字情報は少ないですが、強いていえば北側に多く記され、武家屋敷名・通り名・町名などの記載は、特定の場所に偏っています。
 寺院はほとんど「寺」とされていますが、「大智寺」だけは寺名が記されています。
102.jpg (寺町付近)
 また、神社は「山王」(後述する和歌山古屋敷絵図には「比叡山山王社」)と「八幡宮」(栗林八幡宮)のみ記載されています。
097.jpg (栗林八幡宮が描かれた部分)
 道路が黄色、水系が水色、山野が緑色、橋梁が朱色になっていますが、武家町や町人町、寺院などには彩色はみられません。反面、郊外の田地や樹木が写実的に描かれています(比較的早い時期の絵図の特徴)。方位は「東」の記載しかありません。
 こうした点から、本図は作成途中の下図か、何らかの目的をもって原図から一部の情報のみを記した写図ではないかと推定されます。
 本図に記された家老家は「安藤帯刀・水野対馬守・三浦長門・久野丹波守」となっています。
 この呼称が共通する時期は、水野重上(しげたか)が「対馬守」を名乗る万治元年(1658)閏12月8日が上限で、久野宗俊が「丹波守」から「和泉守」へ改名される元禄3年((1690)が下限となります。
 また、絵図には「渡辺若狭」の記述がありますが、この若狭守を名乗るのは初代渡辺直綱の場合、正保2年(1645)です(直綱は寛文8年に没します)。2代令綱が「若狭守」を名乗り始める時期は不明であるが、貞享2年(1685)5月に「能登守」に改名されています。
 これらの点から、景観年代は万治元年(1658)から貞享2年(1685)までとなります。
 城内の情報が省略される絵図が多いなかで、本図には「殿主」(天守)・「二之丸」・「三之丸」・「西之丸」の位置が記されています。ただ、配置(「二之丸」が「本丸」の南側に位置する)には不自然さがみられます。
099.jpg (和歌山城周辺)
 文献に記された「西之丸」の初見は、初代藩主頼宣が隠居した寛文7年(1667)とされています。さらに、寛文8年(1668)ころに完成したとされる吹上新武家屋敷地も描かれています。
 以上の点を勘案すると、本図の景観年代は1670年ごろから1685年までとなります。
 この時期を描いた城下町絵図としては、万治元年から寛文元年までの景観を描いたとされる和歌山古屋敷絵図(和歌山県立図書館蔵)がありますが、17世紀の和歌山城下町を描いた絵図は数少なく、貴重な絵図といえます。
 企画展「描かれた紀州」は、3月8日(日)まで開催しています。
(主任学芸員 前田正明)
→描かれた紀州
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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