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夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(2)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。
Ⅱ 祖父・灌圃と周辺の人びと
 元禄年間(一六八八~一七〇四)に、濱口儀兵衛(初代知直)が銚子(千葉県銚子市)に進出し、醤油醸造業(ヤマサ醤油)を始めます。江戸には出店があり、代々当主は広村と江戸・銚子とを往復していました。五代灌圃(一七七八~一八三七)、六代保平(一七九九~一八五三)のころには、醤油醸造業に加え、貸金業や不動産投資も行うようになり、店の経営は支配人に任せていました。
 灌圃も経営から離れていくなかで、紀州を拠点にして、野呂介石に師事し、絵を学ぶなど文化的な活動を行います。風雅を愛し、庭に梧桐を植えてその亭を碧梧亭と名付け、多くの文人たちを招きました。灌圃が亡くなった時一七歳であった梧陵は、灌圃から少なからず影響を受けていたようです。
梧陵の祖父・灌圃が描いた中国風の風景画
11山水図 濱口灌圃筆D3A_0011  (画像はクリックで拡大します)
11 山水図 濱口灌圃筆 一幅 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
 灌圃(一七七八~一八三七)は、西浜口家(儀兵衛家)の五代目当主で、梧陵の祖父にあたります。文化三年(一八〇六)に家業である銚子(千葉県)での醤油醸造業を継ぎ、天保二年(一八三一)に隠居しました。若いころから絵を好み、和歌山にいることも多く、福蔵寺(湯浅町)の平林無方とともに野呂介石に師事して絵を学びました。介石の画風をよく学んでいますが、山肌の曲線的な質感描写などに灌圃の特徴があります。現存する作品はあまりありません。
野呂松廬が描いた湯浅・栖原海岸の風景画
12菖蒲湾詩画巻 野呂松廬筆D3A_0024  (画像はクリックで拡大します)
12 菖蒲湾詩画巻 野呂松廬筆 一巻 文政一二年(一八二九) 和歌山県立博物館
 野呂松廬(一七九一~一八四三)は、野呂介石(一七四七~一八二八)の甥にあたります。絵は介石に学んだようですが、儒学者としても知られ、天保六年(一八三五)に紀伊藩田辺領の安藤家に招かれています。一時は湯浅に住み、京都で亡くなりました。この絵は、松廬が三九歳の時に描いたものです。松廬は、栖原村で結成された古碧吟社に招かれ、栖原村を訪れています。この時、菖蒲湾(湯浅町の栖原海岸)の風景を描き、自ら漢詩を書いたと考えられます。
福蔵寺の平林無方が描いた中国風の風景画
13秋景山水図 平林無方筆D3A_0015 (画像はクリックで拡大します)
13 秋景山水図 平林無方筆 一幅 文政九年(一八二六) 和歌山県立博物館
 平林無方(一七八二~一八三七)は、湯浅の福蔵寺の住職です。野呂介石(一七四七~一八二八)に絵を学び、特に山水画を得意としました。この絵は筆の先で点のような印をつけ、紅葉の色彩を表現しています。福蔵寺には、この絵と似た「山水図襖」も残されています。無方は晩年の介石を頻繁に訪ねて指導を仰いだらしく、介石が無方のために描いた作品も残っています。無方四五歳の作で、介石在世中の作としても貴重で、介石晩年の画風をよく継承しています。
野呂介石が平林無方のために描いた絵手本
14蘭石図巻 野呂介石筆DSC_8557(巻末) 14蘭石図巻 野呂介石筆DSC_8489(巻頭) 
(画像はクリックで拡大します)
14 蘭石図巻 野呂介石筆 一巻 文政六年(一八二三) 和歌山県立博物館
 野呂介石(一七四七~一八二八)は、和歌山城下の富裕な町人出身で、初め京都の池大雅(一七二三~七六)に師事し、後に和歌山へ戻り、四七歳で紀伊藩士に登用されました。以後、公務のかたわら絵画制作を続け、紀州の実景を題材にした山水図など、多くの作品を残しています。この巻物には、蘭・霊芝・石・竹などが描かれています。簡素でおとなしい図柄ですが、蘭や竹の葉、石の質感描写は的確です。奥書に、無方のために描いたと記されています。
広八幡神社の祭礼で行われる渡御行列を描く
15広八幡神社祭礼行列図T81_0001-t 小(全体) 15広八幡神社祭礼行列図T81_0001-t(部分拡大)
15広八幡神社祭礼行列図D3A_0172(御旅所) (画像はクリックで拡大します)
15 広八幡神社祭礼行列図 一幅 明治八年(一八七五) 和歌山県立博物館
 毎年八月一五日に行われた広八幡神社(広川町)の祭礼では、神社から浜にある御旅所(湯立釜のある場所)まで渡御行列も行われました。この絵は明治八年の祭礼行列を描いたもので、梧陵と懇意であった古田咏処の家に保管されていた可能性があります。行列は白装束の先祓を先頭に、神官・鎧武者と続き、獅子・露払・山伏のあとに楽人・裃を着て笙・篳篥・龍笛を演奏する人がみえます。最後尾は神輿、神主となっています。
広八幡神社の祭礼で楽奏が復活した時の記録
16年々楽方勘定録D3A_0120  (画像はクリックで拡大します)
16 年々楽方勘定録 一冊 文化三~一〇年(一八〇六~一三) 広八幡神社
 中絶していた祭礼での楽奏が、文化三年に復活されました。この資料には、復活した年から七年間の演奏に関わる費用が記されています。文化三年は、①太鼓を借りた謝礼、②和歌山から楽人三人を雇い入れた謝礼、③笙・篳篥・大笛(龍笛)・大鞁(太鼓)の演奏者への謝礼などが記されています。笙の演奏者の一人が「濱口儀兵衛」(灌圃)です。別の記録には楽装束がなかったため、演奏者は麻の裃を着て、神輿のお供をしたと記されています。
広八幡神社の祭礼で使用された管楽器
17笙・篳篥・龍笛DSC_1953  (画像はクリックで拡大します)
17 笙・篳篥・龍笛 三管 江戸時代 広八幡神社
 祭礼での楽奏に使用された管楽器で、いずれも広八幡神社に残されているものです。笙(右)は根元に金属のリード(発音体)の付いた竹を、丸く束ねた形をしています。篳篥(中央)は竹製の縦笛で、龍笛(左)は竹製の横笛で主旋律を担当しました。祭礼での楽奏が復活した文化三年(一八〇六)に、灌圃は笙の奏者の一人として参加しています。復活の機運は以前からあったようで、灌圃は笙・篳篥の稽古を行い、復活した際には自前の笙を持参したようです。
渡御行列での各集落の役割分担を記した帳簿
18八朔定帳D3A_0095  (画像はクリックで拡大します)
18 八朔定帳 一冊 文化一三~万延元年(一八一六~六〇) 広八幡神社
 毎年八月一五日に行われる広八幡神社の祭礼に参加する各集落の氏子衆(西之町・湊之町・柳瀬・金屋・名島・殿村・寺村・中野・宇田・中村・中之町)が、渡御行列でどの役割(御幣・御翳・御弓・御太刀・御神鉾・御長刀・神馬・御宮番)を分担するかを記したものです。毎年役割は交替し、八月朔日(一日)に決められたことから「八朔定帳」と呼ばれました。嘉永七年(一八五四)の大津波の翌年も分担が記されており、祭礼が中断せず行われたことがわかります。
広八幡神社の祭礼で使用された鼻の高い仮面
19鼻高面 DSC_0732 19鼻高面DSC_0735  19鼻高面DSC_0731(箱蓋裏)
(画像はクリックで拡大します)
19 鼻高面 一面 天正一七年(一五八九) 広八幡神社
 「猿田彦仮面」と伝えられる鼻の高い仮面で、シンプルな形をしています。祭礼行列図【15】には、獅子の前に鼻高面を被り、右手にうけ棒、左手に鉾をもつ人物がみえます。面を納められた箱の蓋裏には、天正一七年八月に濱口安太夫が作り、八幡宮に寄進した。祭礼で使って傷んだため、安太夫の子孫である東濱口家六代の吉右衛門(矩美)と西濱口家五代の儀兵衛(灌圃)が、文政七年(一八二四)に修理し宝庫に納めた、と書かれています。
一八四一年ごろ地士であった家の名簿
20 南紀徳川史 巻之百七 一冊 明治三一年(一八九八) 紀州東照宮
 元紀伊藩主の徳川茂承の命令で、元藩士の堀内信がまとめた紀伊藩の歴史です。天保一二年(一八四一)ごろの地士(武士と同じように名字帯刀が許された人)が記されています。このころ、藩への献金で地士に取り立てられることもあり、広村では八人の名前がみえます。このなかに、濱口吉右衛門(六代 矩美)と濱口儀兵衛(六代 保平)の名前もあります。江戸を拠点とする吉右衛門家は、儀兵衛家が銚子で製造した醤油の販売をおこなっていました。
(主任学芸員 前田正明)
→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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