引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。
Ⅲ 安政地震津波と梧陵・咏処
嘉永七年(安政元年)一一月四日(西暦一八五四年一二月二三日)午前九時ごろ、東海地震が発生、三二時間後の五日(西暦一二月二四日)午後五時ごろ、南海地震が発生しました。湯浅村・広村では、五日の地震に伴う津波被害が大きかったようです。
地震発生時、梧陵は広村に帰郷しており、梧陵が陣頭指揮を執って、被災した村民を救済し、広村堤防を築造しています。一方、梧陵と同じ銚子で醤油醸造業(ジガミザ醤油)を営んでいた古田咏処(一八三六~一九〇六)は銚子にいました。地震津波には関心があり、三年後に全国的な視野から「安政聞録」を著しています。さらに、翌年一一月五日に「津波の記憶」を後世に残すための行事が行われたことも記されています。
一八五四年に伊賀上野で起こった地震の被害状況
(画像はクリックで拡大します)
21 瓦版 大地震早引方角附 一枚 嘉永七年(一八五四)刷 和歌山市立博物館
嘉永七年六月一五日に起こった内陸直下型の伊賀上野地震(三重県伊賀市北部が震源地)を取り上げた瓦版です。瓦版とはおもに街頭でニュース性のある題材を読み上げながら売り歩いた印刷物で、庶民への伝達手段として、このころ普及しました。地震の被害は、東は現在の愛知県、西は現在の徳島県、北は現在の福井県、南は現在の和歌山県と広範囲に及びました。ただ、和歌山城下は少し揺れた程度で被害はなかったと記されています。
一八五四年に起こった東海・南海地震の被害状況
(画像はクリックで拡大します)
22 瓦版 紀州大地震 大津浪の次第 一枚 嘉永七年(一八五四)刷 和歌山市立博物館
嘉永七年一一月四日の東海地震と五日の南海地震(いずれもM八・四と推定)、それに伴う津波で被害を受けた紀伊国の状況が記された瓦版です。和歌山城下は倒れた建物や死者の数、大津波が「湊浜」に押し寄せたことが記されています。このほか、黒江・日方・名方(いずれも海南市)、日高(御坊市周辺)、湯浅浦、田辺、熊野の被害状況のほか、七日から一〇日にかけて、湯浅浦の浜に数多くの死者が打ち上げられたことも記されています。
一八五五年に起こった江戸地震の被害状況
(画像はクリックで拡大します)
23 瓦版 江戸本調大地震幷出火方角附 一枚 安政二年(一八五五)刷 湯浅町教育委員会(山下破竹コレクション)
安政二年一〇月二日、東京湾北部海底を震源とした大地震(M七と推定)が起こりました。この瓦版は、その被害状況(倒壊家屋約一万五千軒、死者約一万人)を伝えています。この時銚子にいた古田咏処は、安政聞録【24】のなかで、毎日のように揺れて、外へ飛び出したことは数知れないと記しています。梧陵は江戸や銚子の店が被害を受けたため、翌年春に後始末のため、江戸に向かっています。
安政地震を全国規模で調査した記録
24 安政聞録 古田咏処筆 一冊 安政四年(一八五七) 養源寺 広川町指定有形文化財
古田家は銚子で醤油醸造業(ジガミザ醤油)を営んでおり、嘉永七年(一八五四)の大地震の際、庄三郎致恭(咏処、一八三六~一九〇六)は父と銚子にいました。翌年一〇月五日銚子を出発、一一月七日広村に帰った庄三郎は、帰る道中の見聞や広村の村人からの聞き取りをまとめました。庄三郎は絵心もあり、梧陵による村民救済のほか、被害状況を記した日本図、津波が広村を襲うなかで村人が広八幡神社に逃げる様子を描いた津波図も載せられています。
一四五前の宝永地震の被害状況をまとめる
(画像はクリックで拡大します)
25 雨窓茶話写 一冊 江戸~明治時代(一九世紀) 和歌山県立図書館
広村の古田豊林が、一四五年前の宝永大津波の記録を、嘉永五年(一八五二)に写したものです。豊林は、安政聞録【24】の著者(咏処)と同一人物といわれています。古田家(井関屋)は、広村問屋として波戸場の修復に関わっていたことから(御用留【10】)、豊林は宝永の大津波に関心を持ち、栗山氏宅にあった記録をまとめたとみられます。二年後に起こった大津波を安政聞録としてまとめた背景に、こうした事情があったのかもしれません。
古田咏処が描いた那智の滝
(画像はクリックで拡大します)
26 山水画巻 古田咏処筆 一巻 明治五年(一八七二) 和歌山県立博物館
古田庄右衛門咏処(庄三郎致恭、一八三六~一九〇六)は、垣内己山の三男として、栖原村(湯浅町)に生まれました。咏処は詩文書画を嗜んだといわれ、父己山も関わっていた古碧吟社に集う文人との交流があったためと考えられます。のち広村の古田家(井関屋)を嗣いでいます。古田家は銚子で醤油醸造業を営んでいました。ここには、蘭や風景を描いた絵が収録され、そのなかに「那智瀑布之図」(那智滝を描いた絵)も含まれています。
安政地震に伴う大津波を描いた二枚の絵
(A本)(B本)(画像はクリックで拡大します)
27 嘉永七年高海之図 二幅 嘉永七年(一八五四)以降 円光寺
大津波が広村を襲う様子を描いた二つの絵(A本・B本)です。全体の構図(右上に広八幡神社、田に稲むらの火、海沿いに密集する集落)は似ていますが、細かい部分は異なります。A本は広村を襲い、江上川を遡上しながら荒れ狂う描写で、津波の恐ろしさが伝わってきます。一方、B本は津波来襲の切迫感は薄れ、文字情報(道名・寺名など)や神社に逃げる人々や浸水域を示し、津波来襲時に取るべき行動を示唆する教訓的要素が感じられます。
津波の被害や梧陵の事績を忘れないための取組
② ①
④ ③
⑥ ⑤ (画像はクリックで拡大します)
28 宮割常式記事 一冊 文化六年~安政二年(一八〇九~五五) 広八幡神社
広八幡神社で毎年かかった経費を記した帳面で、予定外の経費も記されています。嘉永七年(一八五四)一一月の大地震津波では、神社の玉垣や屋根が破損し、修理したこと(①・②)。さらに、大地震津波による広村の詳細な被害状況、梧陵が被災者の救援・広村復興へ陣頭指揮を執ったことなどを忘れないように、村では毎年一一月五日に神社で祈禱御湯神楽が行われ、最後に餅投げを行い、後世への忘れ形見としたと記されています(③~⑥)。
梧陵らが広村住人のために作った相互扶助組織
(画像はクリックで拡大します)
29 村方助成積金講一株加入金請取書 一通 明治三年(一八七〇) 和歌山市立博物館
古田咏処(庄右衛門)・儀右衛門が、村方助成積金講一株分の百両を拠出したことに対し、濱口梧陵(儀兵衛)、濱口東江(吉右衛門)、岩崎明岳(重次郎)が出した請取書です。梧陵(ヤマサ)・明岳(ヤナジュウ)・咏処(ジガミザ)は、銚子で醤油醸造業、東江は江戸でヤマサ醤油を販売していました。豪商に成長した四家は、文化一一年(一八一四)本拠地の広村で、村の安定を図るため、積金講を始めたことがわかります。
(主任学芸員 前田正明)
→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト