木食応其書状(館蔵品904)
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【釈文】
「 木食
三宝院 応其
御同宿中 」
猶々何事も一事
両様なる儀にて可存候間
万方へ不相構、愚老への御こころさし
可存候、、おほしめさるへく候、我等も甚□を
なしく申候、以上、
御文箱之内、定而日来之
御理共□□、只今直談に
申渡候通候間、万事相済、誰人
いかやうの事申候共、一番に被答
御覚悟にて御つめ候て、御馳走候て、
可給候、大師明神拙僧不可存
疎略候、依之箱之中一切に
見不申候て返し申候、猶以面可
申来候、恐々謹言、
十一月廿八日 応其(花押)
【写真・解説等】
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
【内容】
方広寺大仏殿造営のために、京都にいた木食応其(もくじき・おうご)が、
高野山の学侶方である三宝院にあてた書状です。
天正19年(1591)と推定されます。
応其は、「御文箱のことについては直接申し渡したので、万事済みました。誰がどんなことを言っても
一番に答える覚悟で準備していいます。決して弘法大師や丹生明神のことを、
私(応其)はおろそかに思っているのでありません。そのため、御文箱のなかは
一切見ずに返します。」と三宝院に伝えています。
天正19年10月、秀吉は検地終了後、高野山に寺領1万石を与えています。
それを応其は6000石を学侶方へ、4000石を行人方へ配分したようですが、
学侶方からの不満もあり、応其と学侶方とでは対立が起こっていました。
この書状はそのような状況下で出されたものではないかと、考えられています。
(当館学芸員 坂本亮太)