宝永4年(1707)10月4日、東海・東南海・南海地震が同時発生したともいわれる「宝永大地震」(マグニチュード8.4~8.6)が起こり、東海地方から紀伊半島、四国の太平洋沿岸地域は大津波に襲われた。この時に経験した地震や津波の恐ろしさを、後世の人々に伝えようとする津波警告板(和歌山県指定有形民俗文化財)が、白浜町十九淵(つづらぶち)の日(にち)神社に残されている。
(表) (裏)
この津波警告板は、もとは富田川河口付近の高瀬村(現、白浜町富田)の飛鳥神社(飛鳥宮)にあったが、明治時代に飛鳥神社が日神社に合祀(ごうし)されたため、現在は日神社の所蔵となっている。
(飛鳥神社)
板の表面には、画面いっぱいに漢字とカタカナ混じりの文字が書かれている。つけられた振り仮名から、当時の人々は、地震の後に襲ってくる津波を「地震潮津浪(なえしおつなみ)」と呼んでいたこともわかる。
(津波警告板 表・拡大)
高瀬村をはじめ、富田川河口付近の村々は、宝永地震で多くの建物が損壊した。突然襲ってきた津波に対して、動揺しながらも直ちに小倉山や飛鳥山に逃げ登った人たちは助かった。しかし、「家財ニ心ヲ寄セ」、家を出るのが遅れた人たちの多くは、津波にのみ込まれたいう。まさに現代に通じる教訓である。
文章は次のように結ばれている。「(警告板を飛鳥山にある)飛鳥神社に納めておき、毎年行われる祭礼の時、神社に集まった村中の人が内容を読み合うように」。避難場所でもある飛鳥神社で、地震・津波に対する防災意識を高めようとする取り組みは非常に興味深い。
警告板の裏面では、警告板が作成された経緯が記されている。表面の文字が整然とした達筆で書かれているのに対して、裏面に書かれた字はやや崩れており、明らかに筆跡が異なっている。
昔は津波のことが記録されていなかったため、逃げ遅れて命を落とす人が多かった。そこで、村では飛鳥神社の近くの草堂寺三代住職である松岩令貞(しょうがんれいてい)に依頼して、津波に対する警告を書いてもらったという。
(松岩令貞像、草堂寺蔵)
村役人が責任を自覚して、当時の知識人であった僧侶に依頼し、この警告板を作成したのである。多くの漢字に振り仮名がつけられているように、村人全員に「津波の記憶」を継承させようとする意識も感じ取れる。
津波警告板は、現在開催中(6月3日まで)の特別展「災害と文化財 ―歴史を語る文化財の保全―」で公開しています。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト