根来寺境内絵図(館蔵品812)
(写真はクリックで拡大します) (文字判読 ※『根来寺の歴史と文化財』を補訂)
【基本情報】
紙本著色 1幅 縦65.7㎝ 横89.2㎝ 江戸時代後期(19世紀)
【図版・解説】
和歌山県立博物館編『京都安楽寿院と紀州あらかわ』(和歌山県立博物館、2010年)
真義真言宗総本山根来寺・根来寺文化研究所編『根来寺の歴史と文化財』(2009年)
【内容】
根来寺(岩出市)の境内の景観を描いた絵図。
江戸時代に再興された堂舎が描かれず、
大門や大伝法堂など江戸時代後期になってようやく再建された堂舎が描かれていることなどの特徴があります。
そういった点から、天正13年(1585)、豊臣秀吉による紀州攻めで伽藍が焼失する以前の
根来寺の様子を遡及的に描いたものと思われます。
このことは本図の左下部分には墨書からもうかがわれます。
「当山根来寺于時天正三年之比僧舎
之数記之 衆徒・行人僧名合而 五
千九百余人 坊屋衆行以下二千七百余舎
凡東西二十町程」
とあり、天正3年の根来寺の堂舎数や僧侶の数、境内規模が記され、根来寺の隆盛ぶりを伝えています。
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山内の主要な堂塔ばかりでなく、おもだった院家の位置や名称をその跡地を含めて描き込んでおり、
院家名の脇には「学侶」「行人」の注記もあることから、
学侶方・行人方双方にわたる院家の位置を描いている点も特徴です。
特に注目される院家として、
・菩提谷 岩室坊(「政基公旅引付」、太郎兵衛講文書)
・小谷 千光院(太郎兵衛講文書)
・小谷 理智乗院(真福寺聖教)
・小谷 華蔵院(平野家文書)
・小谷 智積院(万徳寺聖教)
・蓮華谷 専識坊(「政基公旅引付」、中家文書)
・西谷 愛染院(宝珠院聖教)
・西谷 池上坊(太郎兵衛講文書)
などがあり、中世の史料に登場する谷名のわかる子院です。
杉坊も「政基公旅引付」に登場する坊院で、
本図は中世の実態をそれなりに反映している可能性が高いと思われます。
さらに、右端に記される学侶十輪院と行人実相院(絵図では「宝相院」)も注目されます。
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大永4年(1524)三條西実隆は高野山へ向かう途中根来寺へも立ち寄っています(「高野参詣日記」)。
実隆は当初は十輪院に泊まる予定だったようですが、
十輪院は学頭で碩学の聞こえがあり、坊では灌頂が行われ、
翌朝も後朝の営みがあり騒がしいだろうということで、
弟子の実相院のところに泊まるようにと実隆は指示を受けています。
この絵図からもわかるとおり、十輪院と実相院は隣あっています。
隣り合う十輪院と実相院は、学侶と行人と寺内での立場は異なりつつも、師弟関係にあったこともわかります。
また、本図は山内の谷筋の表現がほかのどの絵図よりも明瞭というのも大きな特徴です。
本図によれば、山内の堂塔・院家は、東の菩提谷、西の蓮華谷・西谷、北の大谷・小谷
という谷筋に沿って立ち並んでいた様相がよくうかがえます。
この図であらためて注目したいのが、大伝法院と密厳院(不動堂)の前に描かれる「斛屋」です。
この「斛屋」は、寺院の修造を担った「穀屋」のことかと思われます。
根来寺にも穀屋のあったことが知られます。
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近世の「根来合戦記」には、
不動堂穀屋の明王院、御廟所穀屋の奥之院、御影堂穀屋の円明寺、大伝法院穀屋の伝法院、
と4つの穀屋が見られます(『田尻町史』)。
現状、根来寺の穀屋について知りうるのはこの2点のみです。
穀屋が登場するのは、根来氏の由緒を記した部分でもあり、
本図の性格や成立を考えるうえで、
このような近世の由緒・軍記物との関係についても、改めて注目する必要があるのかもしれません。
なお、中世根来寺の坊院については、
坂本亮太「地域のなかの根来寺」(泉佐野の歴史と今を知る会編『連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代』2018年)
海津一朗編『中世根来寺と紀州惣国』(同成社、2013年)
もあわせてご参照ください。
(当館学芸員 坂本亮太)