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日光社参詣曼荼羅(館蔵品1096)

日光社参詣曼荼羅(館蔵品1096)
blog館1096日光社参詣曼荼羅 (クリックで画像は拡大します)
【基本情報】
室町時代(16世紀) 和歌山県指定文化財 
紙本著色  1幅  縦148.7㎝ 横117.8㎝
(収納箱銘)「日光三社大権現三十八社御絵図入 願主小松弥助 平長盛」
【図版・解説】
和歌山県立博物館編『高野山麓 祈りのかたち』2012年
和歌山県立博物館編『弘法大師と高野参詣』2015年
【内容】
やや厚手の楮紙に鮮やかな泥絵の具で日光社(日光山)の景観を描いています。
近世まで日光社の祭祀に深く関わった小松家伝来の資料。
現状では掛幅装となっていますが、
もともとは未使用時には折りたたんでいたことが痕跡からわかり、
本来は縦八つ折、横四つ折にし、
折りたたんだ大きさはおよそ縦32㎝、横20㎝ほどとなります。
使用頻度は高かったようで折り目の角付近がいたみ欠損が大きく生じています。
画面上部には、三つの峰が描かれ、各々雲で区画されて、象徴的な印象を強めています。
画面上部左右両端には、各峰の注記と見られる墨消し部分がありますが、文字は不明。
画面中央に社殿5棟を描き、いずれも檜皮葺として描いています。
この5棟は瑞籬で区画され、中央に鳥居を配置しています。
瑞垣の外には、左方に多宝塔を、その前方に板葺の堂舎、小祠、鐘楼、茅葺・板葺建物などを描き、
神社・仏堂が混在する神仏習合の様相を呈しています。
さらにその下に、左側に堂舎と小祠を、中央に茅葺の建物6棟を配置し、最下部に川を描いています。
基本的には、右下部(川)より、中央社殿へ向かって視点は移動する構図となっているものと思われます。
描かれている総数41名の人物は、社頭では僧侶と神人のほか、
特徴的なのは瑞籬中央の鳥居の中に巫女です。
blog巫女
付近には湯釜も置かれ、湯立てをおこなっている様が描かれています。
瑞垣の外にも僧侶や神官が散見されるほか、
山伏などの宗教者や巡礼者、琵琶法師や説教師などの芸能者など、
聖俗の参拝者を描いて賑わいを表しています。
blog琵琶法師  blog説教師 
(琵琶法師)        (説教師) 
blog巡礼者 blog山伏  
(巡礼者)             (山伏)                 
ほかにも意味ありげな図像もあるものと予想されますが、
関連資料も少なく、まだ十分に読み解きができていない図像がたくさんあります。
日光社(日光山)は既に鎌倉時代(13世紀半ば)には、古文書に登場しており、
その頃より存在していたことは確かです。
・文永9年(1272)8月13日 阿弖河上荘上村臥田注文(又続宝簡集56)
・文永9年8月13日 阿弖河荘上村逃亡跡注進状(又続宝簡集78)
・文永10年6月12日 阿弖河上下荘出田配分注文(又続宝簡集56)
いずれも表記は「日光山」とあります。また、建長8年(1256)には荘園領主より土地が寄進され、
その土地は免田(年貢が控除される土地)であったことがわかります。
鎌倉時代以来、阿弖河荘内の重要な寺社だったようです。
さて、この絵図の成立年代と作成目的ですが、
応永年間(1394~1428)の社殿再興とかかわって、
勧進を行うために作成されたものと伝えられ、またそのように考えられてきました。
その根拠となっているのが、次の資料です。
寛政4年(1792)上湯川村「寺社御改帳」
「勧請由来不相知候へ共、古跡にて御座候、尤縁起・旧記等無御座、元禄御改、右之趣申上候、往古は七堂伽藍の霊場にて坊舎六院甍をならべ、阿帝川庄より石垣庄白岩まで敷地にて毎年祭礼の料を捧、恒例の祭礼をいとなみ申候処、応永年中に失火仕、本社は造営仕候へ共、堂宇坊舎再興相成日不申候、その節境内伽藍等絵図仕置、今に現在仕候、惣じて古跡顕然たる義に御座候」
ただし本図をみると、形式化の見られない伸びやかで自由な人物表現が、
清水寺参詣曼荼羅や長命寺参詣曼荼羅など16世紀に制作された参詣曼荼羅に通じ、
この参詣曼荼羅の制作時期もそのころと考えるべきではないかという意見もあります。
 
本図は参詣曼荼羅研究の上で早くから知られてきたもので、
熊野との関係について注目されてきましたが、あらめて細部を確認すると、
本図の瑞籬内の左側の建物は本来右下に描かれていたものが切断され現位置に貼られていることがわかり、
作画上のデフォルメを受けているとみられ、実際には拝殿などの建物である可能性があります。
そういった点も含め、祭神や祭祀の状況については
より近い高野山との関わりも視野に入れて検討するべきなのかもしれません。
まだ謎が多いのですが、日光社とともに湯川川流域の信仰の場も描かれ、
また小松家先祖とされる小松中将平維盛と想定されるモチーフがあるなど、
かつての阿弖川荘域の中世の一断面を活写している重要史料ということは間違いありません。
【おもな参考文献】
『清水町誌 史料編』(清水町、1982年)
(当館学芸員 坂本亮太)

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