新収蔵資料 増田長盛書状(館1241)

 昨年度末に新たに寄贈された増田長盛書状を紹介します。

①増田長盛書状(館1241)

態申遣候、其方手前」免目録事、度々申」遣候処ニ、于今不相越候、」如何之儀ニ候哉、百姓手前ハ」早相究可申処ニ延」引候之段、沙汰之限ニ候」急度相調候て可申候、」不可有由断候、恐々謹言、

      右衛門尉

 十一月廿九日 長盛(花押)

 

     田村六右衛門殿

 

 今回新たに館蔵資料となった増田長盛書状は、本来は金池村(岩出市金池)に居住した田村家に伝わったものです。既に当館では、金池村田村家文書32点を収集していました(館蔵1013、『戦乱の世から泰平の世へ』和歌山県立博物館、2016年に掲載))。先に田村家文書の調査・研究をされていた池浦正春氏の成果を参照すると(『稲の花―金六一族小史―』1971年)、田村家文書には増田長盛書状は4通あると紹介されていましたが、当館所蔵分には三通しか含まれていませんでした。つまり、田村家文書のうち増田長盛書状1通は所在が不明だったのです。ところが、今回、金池村田村家文書にかつて含まれていた増田長盛書状一通があらためて見つかり、故あって、田村家から譲られたご所蔵者より、博物館へご寄贈していただくことができました。

 古文書を伝えた田村家は、由緒書によると、先祖である田村伯耆は三好氏の家臣で、飯盛山城(大阪府大東市・四條畷市)を守護していましたが、兵乱によって討ち死にし、こどもと実母は牢人となり、紀州金池村に移り住み、20町程の田地を所持する百姓となったといいます。天正13年(1585)、紀伊国は秀吉の弟秀長が国主となり、秀長没後は養子の秀保が支配するようになります。秀保も没すると秀吉の直轄領となり、増田長盛の支配下に置かれました。そういったなかで、田村六郎右衛門は、増田長盛に代官として取り立てられたといいます。

 今回寄贈を受けた古文書は、増田長盛が田村六郎右衛門にあてた書状です。内容は、たびたび免目録を提出すように命じているにもかかわらず、現地に赴かず、免相を早々に決めずに遅れているのは論外である、急いで免目録を調えるように、と命じています。

 参考までに、既に館蔵品としてなっている金池村田村家文書のうち、残りの増田長盛3通も紹介すると次の通りです。

②増田長盛書状(館1013)

態申遣候、其方」手前代官所免相」相究目録幷小帳」何も相調、早々上可申候、」只今迄免相不相究候」所ハ有之間敷候処ニ」由断御沙汰候、急度」上可申候、恐々謹言、

      右衛門尉

 十一月十日 長盛(花押)

 

     田村六郎右衛門殿

 

③増田長盛書状(館1013)

 尚々そこもと一両人の」手前迄無出来候て」公儀御見方不申上候、」自余之手前もいかて」申処ニ其方覚悟候て」如此我等御見用連々候」不及是非次第ニ候、」極月今日まて免合」不相究事申候ハヽ、」可申様無已後申候、已上、

急度申遣候、其方」手前免目録之事、」度々申遣候へ共、于今」不相越候、油断不及」それゝゝいつれの手前も」相越候、其方手前迄」候て御算用不相究候」沙汰限不相届儀ニ候、」急度相調、此者ニ可」相渡候、不可有油断候、」恐々謹言、

      右衛門尉

 十二月十三日 長盛(花押)

 

     田村六右衛門殿

④増田長盛書状(館1013)

急度申遣候、

一二月十五日以前ニ在之」池堤・川つヽみ可申付旨、」何之国ニも御法度之」儀ニ候間、普請申付候て」不叶所、其村百姓共ニ」召出無由断可申付候、」則罷出人数着到も」付飯米壱人ニ三合宛」さこくを以可遣候事、

一何に付も立毛付候」程の田畠あらし候ハヽ、」可為曲事候、其上荒」田ニも年貢可召置候、」立毛付候分ハ内検之」上を以、それゝゝニ作徳」可遣候旨、耕作之儀、無」由断可申付候事、

一右之通代官油由断仕」不申付候歟、又ハ百姓」無沙汰仕候歟、重而」上便を以改可申候間、」成其意、堅可申付候、」恐々謹言、

       右衛門尉

   正月十一日 長盛(花押)    

              

    田村六右衛門殿

 

 あらためてこの時期の経過をまとめると次のようになります。

 11月10日、増田長盛は代官に命じた田村六右衛門に、支配地に対して早々に免相を定め、免目録・小帳を提出するように命じています(②)。ところが、11月29日には、度々免目録を提出すように命じているにもかかわらず、現地に赴かず、免相を早々に決めずに遅れているのは論外である。急いで免目録を調えるように命じています(①)。また、12月13日には、6日までに提出するように命じたにもかかわらず、まだ提出されておらず、再度の提出を命じています(③)。田村六郎右衛門による年貢徴収は順調には進んでいなかったことがうかがえます。さらに正月11日付け文書では、農村支配にあたり注意事項を指示しています(④)。恐らく百姓たちからの反対や要求があり、それに応えるかたちで取り決めがなされたのでしょう。2月15日以前に池堤や川堤の普請に百姓を駆り出してはならない、駆り出した場合は出来てきた者の記録をつけ、飯米(雑穀)を一人三合ずつ支給すること、さらに「立毛付」(田が実った分ヵ)は荒らさないようにし、荒田の年貢分は召し置き、また作付けされた場合は内検をし、その分は年貢を取り、作徳も認めるとして、油断なく耕作させるように、と命じています。それでもなお百姓たちが無沙汰するようなら、上使をもって連絡するようにとも言っています。

 このように金池村田村家文書は、年貢徴収や土木普請に関わるものが含まれ、特に増田長盛支配下の紀の川流域でおこなわれた代官支配の様相を具体的に示す史料として貴重なものといえましょう。今後の活用が期待されます。

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