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歴史史料からみた和歌山市中心部の津波被害

 今回の展示では、安政元年(1854)に起こった地震・津波に関わる2枚の瓦版を展示しています。いずれも和歌山市立博物館所蔵のものです。瓦版というのは、江戸時代におもに街頭でニュース性のある題材を、読み上げながら売り歩いた印刷物のことで、庶民の伝達手段として、とくに幕末期に普及しました。とくに、江戸や大坂などで盛んに印刷されています。
 2枚の瓦版のうち、6月15日に現在の三重県の伊賀上野付近で起こった内陸直下型の地震を伝えるのが、「大地震早引方角附(おおじしんはやびきほうがくつけ)」です。
072(瓦版) 072(部分)(「紀伊国」部分の拡大)
 東は三河国(現在の愛知県の一部)、西は阿波国(現在の徳島県)、北は越前国(現在の福井県)、南は大和国(現在の奈良県)や伊勢国(現在の三重県)までの一六か国の地震の被害が記されています。紀伊国は一六か国には入っていませんが、左下に、「和歌山城下は少し揺れた程度で被害はなかった」、と記されています。
 その地震から5か月も経たないうちに、今度は海溝型の地震が起きました。11月4日の東海地震と5日の南海地震です。この地震を伝える瓦版が、「紀州大地震大津波の次第(きしゅうおおじしんおおつなみのしだい)」です。
089.jpg
 紀伊国内の若山<和歌山>、黒江・日方・名方<名高>(いずれも現在の海南市)、日高(現在の御坊市周辺)、湯浅浦、田辺、熊野などでの地震・津波の被害が記されています。翌年(安政2年)10月2日に江戸で起こった、安政江戸地震に関わる瓦版はたくさん作られ、残っていますが、紀伊国の情報に限定された瓦版は珍しいようです。
 この瓦版にの右上に書かれている和歌山城下の津波被害について注目してみましょう。
089(部分1) 089(部分2)(和歌山城下町に関わる記述部分を拡大)
 大津が押し寄せた「湊浜」の被害状況が絵入りで記されています。「同五日昼七つ時より湊浜大津波にて川口にかかり船五六十艘吹あがり□なと川にてことごとく打くだけ、夫に付湊町家百軒余くだけ、尤死者数しれず、地しんにて船へにげ行候人々は、そのまま大波に引こまれ行方しれず」と記されています。この「湊浜」が、紀ノ川河口の湊付近とすれば、湊付近にも「大津波」が来たことになります。どのような津波だったのでしょうか。
 和歌山城下町研究の第一人者・三尾功氏は、和歌山城下付近の津波について、残されている史料から次のように紹介されています。
 宝永4年(1707)10月4日の宝永大地震では、名草郡岩橋村(現在の和歌山市岩橋)の湯橋吉良太夫長泰が子孫への一代記として記録した「長泰年譜」によれば、「和歌山湊や加太浦、塩津に津波は来なかったが、大潮となり、紀ノ川口から大船が押し流されてきて、伝法橋は三つに折れて落ちた」という。また、安政元年11月4日・5日の安政大地震では、大工棟梁の水島平次郎が記した「水島見聞雑記」によれば、「若山は、地震は強けれ共津波は軽く、然共伝法橋之下江舟五十杯程、右津波押寄来り、いやが上に重り、誠に蕎麦の鉢を積重ねたるが如く、北島川原江数十町も脇に掛り有之候、四百石位の舟砂上に押上られ有之」という。こうした史料から、「地震の多い和歌山ではあるが、瀬戸内に面する地であるためか、津波の被害は余り受けていない。安政の大地震の場合も、紀南地方に大きな被害をもたらしたが、和歌山では案外軽く済んでいる。」(『近世都市和歌山の研究』p248)と指摘しています。
 その一方で、明応7年(1498)8月25日に起こった明応大地震では、「明応年間の津波が原因で、和田浦(紀ノ川の旧河道である土入川に面した場所にあり、当時は「紀伊湊」、「和田千軒」とも称されて、繁華な港町であった)の住民・寺社は湊地域に移り住んだ。明応年間の津波とは、明応七年(一四九八)八月二十五日の地震津浪以外には考えられない。湊地域は、明応七年の地震津浪以後に形成された地域であった」(矢田俊文『中世の巨大地震』p153)の指摘から、「紀ノ川・土入川・和歌川・和田川など、大津波の可能性があり、安心できる状況ではないと思われる。…(中略)…。今から三十年以内に確率的に必ず発生が予想されている南海大地震は、東日本大震災と同程度の津波も「想定内」としなければばらないだろう。これが過去の歴史史料の物語る教訓である」(三尾八朔『紀州近世史料拾遺』二、私家版)と述べています。
 同じ南海地震といっても、地震の発生場所や規模によって、津波の被害地域が異なってくる可能性もあるようです。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト 

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