トップページ >博物館ニュース >特別展「京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?」コラム(3)

特別展「京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?」コラム(3)

東寺・醍醐寺と覚栄
 今回の特別展で紹介している覚栄(かくえい、??1622)は、これまで紹介した安楽寿院の復興のほか、東寺や醍醐寺の復興にもかかわっていました。
今回は、東寺・醍醐寺と覚栄とのかかわりをみてみたいと思います。
 室町時代から安土桃山時代にかけて、東寺の伽藍は戦乱や地震のため、大きな被害を受けていました。
秀吉は木食応其を奉行に命じ、天正17年(1589)から灌頂院、東門、講堂の屋根瓦葺の順に修理を行い、最後に五重塔(永禄6年〈1563〉焼失)の再建を行いました。
工事が終わるのは文禄2年(1593)で、翌年大政所の三回忌に合わせて、塔供養が行われています。
ところが、文禄5年(1596)に起こった大地震で、食堂、講堂、灌頂院、南大門、北大門などが倒壊したため、慶長3年(1598)に、応其が奉行となって、倒壊した建物の修理と金堂の再建が始まりました。
D2X_0242.jpg
(木食応其書状、安楽寿院蔵)
 慶長3年とみられる木食応其書状には、東寺の築地(ついじ)の修理が終わり、修理に携わった覚栄に院号(遍照院)が与えられたことが記されています。
これを裏付けるように、義演准后日記(醍醐寺蔵)には、これまで「二位」と呼ばれていた覚栄の呼称が、慶長3年7月15日条から「遍照院」の呼称に変わっています。
 東寺の復興は、慶長3年に本格化します。
009-1 東寺講堂
(東寺講堂)
 まず、講堂の再建が行われたようで、このとき行われた講堂内の仏像の修復に、覚栄がかかわっていました。
10月8日に大日如来供養が行われますが、大日如来像の像内に納入された木札には、本願として応其、大仏師として康正(こうしょう、1534?1621)の名が記されています。
また、12月21日には不動明王供養が行われ、不動明王像の像内に納入された木札には、「覚栄法印」と記されています。
 さらに、慶長11年には五大明王(不動明王像以外の4軀ヵ)の修理が行われます。
五大明王像のうち軍荼利明王像(ぐんだりみょうおうぞう)の左足の枘(ほぞ)には「奉修造之/覚栄/本願遍照院」、金剛夜叉明王像(こんごうやしゃみょうおうぞう)の像背には、表には大仏師康乗の名前が、裏には願主遍照院覚栄の名前が記されています。
010-1 東寺金堂
(東寺金堂)
 金堂の再建は、慶長4年に始まります。
当初は応其が奉行を勤めていましたが、やがて文殊院勢誉(もんじゅいんせいよ、1549?1612)に代わったようです。
こうしたなか、慶長7年12月4日、造営中の方広寺大仏殿が炎上し、新造の大仏も焼失するという大事件が起こりました。
このとき勢誉が大仏殿の造営奉行を勤めていたこともあり、勢誉は一時的に東寺金堂の造営からも離れていったようです。
金堂が完成した慶長8年5月に作成された棟札には、勢誉の名が記されていません。
 慶長7年、豊臣秀頼が檀越となり、金堂の本尊である薬師三尊像の制作が始まります。
義演准后日記
(義演准后日記〈慶長7年10月15日条?16日条〉、醍醐寺蔵)
 義演准后日記には、10月15日から16日にかけて、覚栄は本尊制作に向けて御衣木加持(みそぎかじ)を行うため、七条仏師の康正らとともに醍醐寺を訪れたことが記されています。
三尊像はおよそ一年半をかけて制作されたようで、
中尊の薬師如来坐像の頭部内に納入されていた木札には、
豊臣家の繁栄を祈って制作されこと、
仏師は七条仏師の康正、康意(康正の弟)、康猶(康正の嫡子)、康英(康正の猶子)であったこと、
造営には木食応其がかかわり、覚栄が奉行を務めていたこと、
などが記されています。
 慶長11年9月21日、金堂の落慶法要が行われました。
落慶法要に必要な道具の調達のため、覚栄が醍醐寺と交渉を行っていることが、醍醐寺に残された文書からわかります。
 東寺では、このほか慶長6年に北大門、慶長10年には南大門と東大門(不開門)の修復も行われました。
南大門と東大門の奉行は覚栄に引き継がれたようで、東大門(不開門、あかずのもん)の棟札には、「惣奉行遍照院覚栄」の名前が記されています。
 覚栄は、文禄5年の大地震で被害を受けた醍醐寺の復興にもかかわっていました。
絵はがき(醍醐寺五重塔)写真面
(醍醐寺五重塔、絵はがき〈喜多村進コレクション〉和歌山県立博物館蔵)
 義演准后日記(慶長3年2月25日条)には、覚栄が五重塔の造営奉行を命じられたことが記されています。
絵はがき(醍醐寺金堂)写真面
(醍醐寺金堂、絵はがき〈喜多村進コレクション〉和歌山県立博物館蔵)
 慶長5年には、紀州湯浅から移築された金堂が完成します。
義演准后日記(慶長5年5月2日条)には、金堂に安置された薬師三尊像の修理のため、金堂奉行の遍照院(覚栄)が大仏師(康正)ととも訪れた、と記されています。
薬師如来像の像内には修理札が三枚重ねて打ち付けられていますが、そのうちの一枚の修理札には、「覚栄法印」の名が記されています。
 今回紹介した東寺・醍醐寺と覚栄とのかかわりについては、おもに特別展図録『京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?―木食応其を支えた僧・覚栄の事績を中心に―』で翻刻した資料に基づいています。
詳しくは、特別展図録の資料翻刻に掲載した資料をご覧ください。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト
→特別展 京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?

ツイートボタン
いいねボタン