トップページ >博物館ニュース >特別展「京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?」コラム(6)

特別展「京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?」コラム(6)

根来大工活躍の立役者 覚栄
 三船神社は、古くは御船明神社とも呼ばれ、紀の川市桃山町神田(こうだ)の柘榴川右岸の三船山麓に鎮座しています。
重要文化財 三船神社社殿
(三船神社、重要文化財)
祭神は木霊屋船命(こだまやふねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)・彦狭知命(ひこさしりのみこと)の三神で、摂社に丹生明神社と高野明神社があります。
創建は不明ですが、江戸時代後期の地誌である紀伊続風土記によれば、もとは柘榴川上流の黒川(現、紀の川市桃山町黒川)にある稲村社(稲森明神社)に鎮座し、中の宮・古宮を経て、天正18年(1590)に現在地へと移ったとされています。
017 稲森明神社
(稲森明神社)
104AG 中の宮
(善田村・大原村立合絵図〈金剛峯寺蔵〉に描かれた中の宮)
001 古宮
(古宮)
 現在の社殿のうち、本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で天正18年の建立、摂社は一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみぎいりかすがづくり)で慶長4年(1599)の建立とされています。
各社殿は極彩色が施されるなど華麗な桃山彫刻の特徴をよく表しており、国の重要文化財に指定されています。
三船神社には、社殿に付随する多数の棟札が残されており、そのうちの8枚が社殿(重要文化財)の附(つけたり)指定を受けています。
 これらの棟札のなかで、最も古いのが天正18年の年紀のある棟札です。
三船神社棟札? 表   三船神社棟札? 裏
(棟札・表)   (棟札・裏)
 この棟札の表面には、天正18年9月21日に、木食興山上人(応其、1536?1608)が大明神御社一宇(三船神社本殿)を造り替えた、と記されています。一方、裏面には大工は刑部左衛門で、建立奉行は応其の配下であった二位公覚栄(??1622)であると記されています。刑部左衛門(吉次)は、根来寺の門前である坂本(現、岩出市根来)に居所をもつ根来大工で、根来寺の大塔の造営を行った大工の家柄でした。
 天正13年の豊臣秀吉による根来寺の焼き討ちによって、根来大工の生活基盤は一転し、その後、応其が行う高野山金堂の再建や京都方広寺の大仏殿の造営に当たるようになりました。
根来大工が応其の配下にあったことは、ごく自然のように考えられていますが、その初発については必ずしも明らかではありませんでした。
こうしたなか、最近、覚栄が根来寺の塔頭の一つである十輪院の住職を勤めていたことが明らかになりました(コラム5参照)。
 根来寺とゆかりの深い覚栄の存在によって、三船神社をはじめ、紀州や京都で寺社造営を行った応其と、優れた技量をもつ根来大工とが結びつくことができたと考えられます。
 最後に、根来大工が活躍した事例を紹介したいと思います。
 宮城県松島町に、伊達政宗(1567?1636)が造営した瑞巌寺(ずいがんじ)があります。五大堂(重要文化財)は慶長9年(1604)の造営で、棟札に「大工 紀州那賀郡根来鶴衞家次 脇大工 同吉衞門頼定」と記されています。
また、宮城県仙台市にある大崎八幡神社の社殿(国宝)も伊達政宗によって造営され、慶長14年ごろに完成しています。宝殿の棟札には、「本国城州 御大工日向守家次 棟梁 形部左衛門国次 棟梁三十郎頼次」と記されています。
 鳴海祥博氏によれば、根来の大工(「鶴衛門家次」・「鶴吉衛門頼定」・「刑部左衛門国次」)は慶長9年に瑞巌寺(現存)の造営、次いで慶長12年に大崎八幡神社(現存)、そして慶長15年の仙台城の造営に当たっており、「刑部左衛門国次」は三船神社の造営に当たった「刑部左衛門吉次」の近親のものとされています。
 では、伊達政宗が根来大工を重用した背景に何があったのでしょうか。
紀の川市の旧家には、伊達政宗と応其とのかかわりを示す書状が残されています。慶長4年と推定される8月17日付の書状は、羽大崎少将政宗(伊達政宗)が木食上人(木食応其)御宿所にあてたものです。
115伊達政宗書状
(伊達政宗書状、個人蔵)
 慶長4年8月18日、京都・東山の豊国社では秀吉一周忌法要の神事(神法楽)が行われました。この書状は、それに出席するため、政宗が方広寺大仏殿の近くにあった応其の宿坊の借用を願い出たものではないかと考えられます(京にあった応其の宿坊については、醍醐寺の義演が記した義演准后日記(文禄5年5月28日条に、「宿坊興山上人坊号山里」と記されています)。
根来大工が仙台で活躍する背景には、こうした応其と政宗との親密な関係があったのではないでしょうか。
《本文は、毎日新聞2010年10月20日朝刊和歌山版〈第3地域面〉に掲載された「温故知新 わかやまの宝物」を加筆したものです。》
 応其と根来大工とのかかわりについては、鳴海祥博氏執筆のコラム「応其と根来大工」(『特別展 没後四〇〇年 木食応其 ―秀吉から高野山を救った僧―』和歌山県立博物館、2008年)や「根来寺多宝塔(大塔)墨書銘にみる中世根来と根来大工」(『中世根来の社会史』和歌山大学教育学部海津研究室、2008年)をご参照ください。
また、瑞巌寺と大崎八幡神社の棟札の銘文については、『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』(国立歴史民俗博物館、1997年)に収録されています。
 本文で紹介した伊達政宗書状については、前田執筆の「発給文書からみた木食応其の動向―新出文書の紹介をかねて―」(『和歌山県立博物館研究紀要』16、2010年)で紹介していますので、ご参照ください。
次回のミュージアムトークは、30日(土)午後1時30分から行います。
特別展の会期も、あと10日となりました。皆さんのご来館をお待ちしています。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト
→特別展 京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?

ツイートボタン
いいねボタン