粉河寺四至伽藍図写(館蔵品1139)
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【基本情報】
紙本著色 1舗 縦131.1㎝ 横57.4㎝ 江戸~明治時代(19世紀)
【図版・解説】
和歌山県立博物館編『国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史』(和歌山県立博物館、2020年)
【内容】
粉河寺の伽藍と根本寺領である粉河荘の範囲(四至)を縦長の画面に描いた絵図。
粉河寺に所蔵される粉河寺四至伽藍図(縦134.3㎝×横59.1㎝、紀の川市指定文化財)
の精緻な写しでです。
粉河寺本については、中世における粉河寺境内と同寺領のあり方を考えるうえで
これまで広く注目されてきた資料で、もとは粉河寺北方の中ノ才・児玉家に伝来していましたが、
近年粉河寺に収蔵されていいます。
本図は、原本に薄い紙を重ねて敷き写したもので、
木々の配置や茂る葉の表し方などには相違もありますが、
建物・地形・注記などの画面情報は完全に一致します。
箱などの付属物はなく、写された経緯等についてはよくわかりません。
画面上部に「南紀補陀落山粉河寺四至伽藍之図」と記されています(籠字として「南紀」のみ墨で埋める)。
その下に葛城山脈の山並みを背に、粉河寺の伽藍が描かれています。
粉河寺への参道と中津川を縦軸の中心に、
粉河寺の境内と子院・堂舎(宗教施設)を詳細に描いています。
(礼堂・御池坊周辺)
(大門周辺)
ただし、江戸時代に存在した子院や堂舎は描かれず、
東塔・西塔や法水院・学頭無量寿院などがあり、
天正13年(1585)の兵火以前の粉河寺の景観を描いたものと思われます。
周辺部においては、東は椎尾・水無川(名手川)・弁才天、
南は紀の川・龍門山、西は風市社・門川弁才天、北は葛城山脈を描き、
粉河寺が主張する正暦2年(991)の太政官符写の四至にほぼ一致し、
粉河寺領の領域を強く意識した構図となっています。
ただし構図的には、下丹生谷を粉河寺の真横に配置し、
一方の東野村などを中心の参道・中津川に寄せた関係で、
画面右下に広い空白部分を生じさせるなどの問題も生じています。
(右下の余白)
本図には、165か所に及ぶ文字注記があります(※)。
※大高康正『参詣曼荼羅の研究』(岩田書院、2012年)で粉河寺本の文字注記が一覧表化されています。
文字注記と図像を見てみると、
「旧誓度院」とある一方、猪垣村に「誓度院」(「誓度寺」ではない)とあることから、
正長元年(1428)誓度院移転後の景観ということがわかります。
そのほか村名でみると、平安期の史料にのみ見られる「鎌垣東西村」、
『元亨釈書』にしか表れない「風市村」(少なくとも室町期以降は「松井(村)」)、
さらには戦国期になって初めて登場する「東野村(邑)」「藤崎」「井田村」「中津河村」
などの表記・図像もあり、時代的には古代~戦国末までの情報が混在しています。
粉河寺と同寺領の盛時の景観を盛り込んで描いた絵図といえましょう。
「粉河寺旧記」記載の「粉河寺旧跡之覚」と一致する記述も多く、
「粉河寺旧記」のもととなる史料に基づきながら作成された可能性も考えられます。
なお、これまで本図の原図(粉河寺本)は室町時代とされてきましたが、
江戸時代以前の景観を描いているということ以外に時代を特定する明確な根拠はありません。
むしろ、「粉河寺旧記」や参詣曼荼羅との関連などから、
江戸時代初期頃に作成されたものとしておくのが良いのではないかと考えています。
さらなる研究の進展に期待したいと思います。
(当館学芸員 坂本亮太)