紀州名草郡紀三井山護国院金剛宝寺境内図(館蔵品263)
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【基本情報】
明治24年(1891) 紙本墨刷 1枚 縦35.6㎝ 横48.2㎝
【図版・解説】 ※同版で和歌山市立博物館所蔵のものが紹介されています
和歌山市立博物館編『和歌浦―その景とうつりかわり―』(和歌山市立博物館、2005年)
【内容】
西国巡礼第二番札所である紀三井寺(和歌山市)の境内を描いた木版刷りの絵図。
この図は、天保11年(1840)に作成された版をもとに、
明治24年(1891)に部分的に修正を加えて、桜井一清堂によって改版されたものです。
右下の登り口には楼門(仁王門)があり、石段の両側には子院が建ち並んでいます。
石段上には本堂・本坊・鎮守・大日・開山堂・札所(六角堂)などが並んでいます。
現在は石段を登りきったあと、六角堂・鐘楼・大師堂と並んでいますが、
この図では鐘楼・大師堂・札所(六角堂)となっており、六角堂の位置が現状と異なります。
(現状の六角堂、奥に鐘楼がみえます)
なお、六角堂は18世紀後期の建築とされていますが(『和歌山県の近世社寺建築』)、
移動したのか、それとも絵が間違えて描かれたのか、検討が必要です。
明治時代以降も境内の変遷があったのでしょう。
なお本図では、紀三井寺の塔は三重塔ではなく「大日」と注記され、多宝塔として描かれています。
(大日とされた塔) (多宝塔現状『紀三井寺開創1250年記念図録』より)
次に文化8年(1811)に刊行された『紀伊国名所図会』とも比較とみたいと思います。
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『紀伊名所図会』に描かれた紀三井寺の境内図と、この図とを比べてみると、
中央下部の文字などは大きく異なりますがが、構図や境内の構成要素は概ね一致しています。
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そういったなかでも大きな違いとなるのは、
①海龍院の有無、
(境内図) (名所図会)
②手洗所の横にある茶所と大きな樟、
(境内図) (名所図会) (現状)
③本堂前の堂舎が釈迦堂か如意輪尊か、
④本坊の大きさ、
⑤本堂から開山堂へ行く階段の屋根の有無、
(境内図) (名所図会) (如意輪観音現状)
などが挙げられます。
このようにみると、江戸時代後期から明治時代にかけて、
紀三井寺の本堂前の景観も大きく変わったことが想像されます。
なお、天保11年(1840)の元図(『和歌浦―その景とうつりかわり―』に掲載)と比べると、
画面上部の鐘楼と大きな松の位置、上部左上の本坊、
中央下部の芭蕉塚の碑文を記した部分などが異なっています。
鐘楼の位置が『紀伊国名所図会』とも異なる理由はわかりません。
鐘楼は天正16年(1588)の建立で、国指定の重要文化財となっています。
位置を間違えて描いたのか、鐘楼の位置が移動したのか、考える必要があります。
そのほか、江戸時代の紀三井寺の景観を知ることができる絵画資料として、
・紀三井寺参詣曼荼羅 1幅(紀三井寺蔵):17世紀
・名所図画 1巻(和歌山市立博物館蔵):17世紀半ば
・和歌浦図巻 1巻(和歌山市立博物館蔵):江戸時代後期 笹川遊泉筆
などがあります。
(当館学芸員 坂本亮太)