明後日(7日)、午後1時30分から、最後(9回目)のミュージアムトークを行います。
(前回のトークの様子 賀和村絵図の前での展示説明)
さて、これまで折りに触れ、今回の特別展ゆかりの地である、京都・安楽寿院や紀州・安楽川地域について、覚栄が活躍した時代を中心に、その歴史を紹介してきました。
最後に、安楽川の開発史を語るうえでは欠くことのできない安楽川井について、触れておきたいと思います。
この安楽川井も木食応其とかかわるものです。
(荒見井からの用水が湧き出ているところ)(安楽川井が分岐する所)
安楽川井は紀の川市桃山町の元・市場・段・段新田にある耕地を灌漑する用水路で、以前は紀の川市桃山町段新田付近の紀ノ川から取水していましたが、現在は紀の川市荒見で取水する荒見井と統合されています。
現在の安楽川井の受益面積は、211.4ha(平成22年1月1日現在、紀の川土地改良区連合のホームページ)とされています。
(安楽川井の旧取水口〈推定地〉) (元付近を流れる安楽川井)
(紀伊国那賀郡田中庄山之絵図、和歌山県立博物館蔵)
(賀和村絵図、金剛峯寺蔵)
元禄12年(1699)の紀伊国那賀郡田中庄山之絵図(和歌山県立博物館蔵、この資料は今回展示していません)や同じ時期に作成されたと考えられる賀和村絵図(金剛峯寺蔵)には、荒見井に統合される以前の段新田付近で取水して安楽川井が描かれています。
現地に残る「百合」(「百合」は「圦」=水門が変化したものとされる)という地名は、その名残ともいわれています。
この安楽川井は、天正17年(1589)から同18年にかけて、応其によって再興(改修)されました。
(田中荘年寄中連署証文、三船神社蔵)
この証文には応其によって安楽川井が再興されたとき、田中荘が格別の「馳走」(貢献)をしたので、その返礼に田中荘が毎年安楽川荘に納めていた「検行(校)山・平野山」の山手米が免除されることになったと記されています。
応其の事績を記した諸寺諸社造営目録(金剛峯寺蔵)には、「安楽川ノいて 都合千五百石」とあり、安楽川井の再興に1500石の費用がかかったと記されています。かなり規模の大きな工事だったようです。
一方、江戸時代後期に記された地誌である『紀伊続風土記』には、市場村・小路村・賀和村は、氾濫原の開発によって生まれた村であると記されています。
では、安楽川井はいつごろ開削されたのでしょうか。
(荒川荘大井百姓申状、金剛峯寺蔵、国宝)
応永20年(1413)の荒川荘大井百姓申状(又続宝簡集巻84に収録)は、安楽川井周辺の百姓たちが、島(紀ノ川に近い氾濫原)を田にするために、「安楽河荘大井」を整備したい旨を高野山に願い出たものです。
この「大井」が、安楽川井を指すのではないかと考えられています。
この「大井」は、正応3年(1291)の金剛峯寺衆徒評定事書(続宝簡集」巻6に収録)にもみえることから、安楽川井の原型が鎌倉時代にまでさかのぼる可能性が指摘されています。
安楽川井の大規模な改修(再興)が行われた天正17年から同18年にかけて、応其は紀ノ川沿いのいくつかの池(現在の橋本市から紀の川市までの)の改修を行いました。
また、安楽川地域では、三船神社(神田村)・八幡宮(上野村、現在の紀の川市桃山町最上)・住吉社(小路村、現在の紀の川市桃山町元)、といった神社を再興し、八幡宮の境内に興山寺を創建しています。
さらに、高野山上でも興山寺が創建され、天正19年には六角経蔵(安楽川経蔵)が再興されています。
慶長2年(1597)、再興された高野山大塔の落慶法要が行われます。
(木食応其書状、個人蔵)
この書状は、落慶法要が行われた直後に出されたもので、高野登山の街道沿いでの人馬徴発については、木食応其とその内衆(二位、源盛、文殊院、理徳院)の許可なくして、いかなる者にも認めない旨を清水村(現、橋本市)の市介と村中に示したものです。
この内衆のなかに、二位(覚栄)や文殊院(勢誉)もいました。
応其による一連の事業を支えたのが、覚栄に代表される内衆(奉行)たちであったといえます。
安楽川井については、特別展図録に、前田執筆のコラム(「近世における安楽川井とその周辺」)が掲載されていますので、あわせてご覧ください。
特別展の会期も、あと3日となりました。この週末は、ぜひ博物館にもお越しください。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト
→特別展 京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?