左:大正8年11月27日付けはがき 右:大正10年10月8日付けはがき
田辺に拠点を置いて活躍した博物学者・南方熊楠は、柳田国男や白井光太郎といった学界の著名な学者と交流を結んだことはよく知られているが、同様に地元のさまざまな人との色々なやりとりがあったことも忘れてはならない。
高山寺に所蔵されている熊楠に関わるいくつかの資料のうち、2枚のはがきがある。これらはいずれも、田辺在住の画家・楠本秀男にあてて出されたものである。楠本は下秋津の出身で、東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画・洋画を学び、帰郷後は家業の薬店を営みながら作画を行っていた。
大正8(1919)年11月27日付けのはがきは、翌年が申年なので雑誌『太陽』へ「猴(さる)に関する民俗と伝説」という文章を掲載したいが、手が震えて挿絵をうまく描くことができないので、11月中に代わりに挿絵を描くために熊楠宅に来てほしいと依頼するものである。実際出版された雑誌には挿絵が11点みられるので、これらは楠本が描いたものかも知れない。晩年の熊楠は、体の衰えから写生が困難になり、楠本や川島草堂らの地元の画家に協力をあおいでいる。
もう1通の大正10年10月8日づけのものには、淡彩でキノコを描いたスケッチがみられる。文面によると、このキノコは楠本が熊楠のもとに持ち込んだものらしく、ウスタケの一種で他にみられない珍しい特徴を持っているので、多く採集して乾燥・保管し、新種として発表するように楠本に勧めている。なお、この月の末から1か月間、熊楠は楠本を伴って2度目の高野山菌類採集調査を行った。
昭和16(1941)年12月29日に熊楠は亡くなり、その墓が高山寺にあることはよく知られている。墓石に刻まれた文字は、熊楠の自筆原稿から雑賀貞次郎が選び出したものである。(学芸課長竹中康彦)
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