「住民が守った胎内仏」
有田川町・歓喜寺に所蔵される平安時代前期に造られた地蔵菩薩坐像(重要文化財)の像内から、一体の小さな仏像が発見された。といっても、実は江戸時代の話である。歓喜寺に残されていた歓喜寺什宝物由緒書写という記録に、その顛末が記されている。
寛文4年(1664)2月24日。そのころ歓喜寺では長く住職がおらず、お地蔵さんの縁日のこの日に、村中の人が寺に集まって掃除をしていた。その時、地蔵菩薩坐像に小さな穴があることに気づいた。仏像を傾けて指や棒で探ってみると、中に一体、小さな仏像があるようだ。穴を少し広げて取り出すと、それは1寸8分の地蔵菩薩坐像であった。
村人によって発見された胎内仏はその後「村の宝」として取り扱われた。元文5年(1740)には、仏像を納める箱が歓喜寺村庄屋によって作られた。明治時代以降は区長のもとを移動しながら管理された。地蔵菩薩坐像は住民によって守られながら今日にまで残されてきたのであった。
そして今年、特別展「移動する仏像」の事前調査でこの像を調べたところ、驚くべき事実が判明した。像高が3・3?という極小の像であるが、溌剌とした青年のような表情、破綻のないプロポーションなど細部まで神経の行き届いたその造形は、約800年前、鎌倉時代前期に造られたことを示していたのである。
なぜ平安時代の地蔵菩薩に、鎌倉時代の地蔵菩薩が納められているのだろうか。歓喜寺は、有田地域出身の高僧明恵(みょうえ)の生誕地に、没後弟子の喜海が13世紀半ばごろに建立した寺院である。その創建時期と胎内仏の造像時期が近いことは偶然ではないと思う。あるいはこの仏像は、明恵か喜海が所持したもので、創建された歓喜寺にとって重要な仏像ではなかっただろうか。
答えはまだ明らかではない。住民の間を移動しながら伝えられた小さな仏像は、大きな物語を背負い、そして未来へと受け継がれていく。仏像が語る歴史に耳を傾けたい。(学芸員 大河内智之)
(胎内仏) 地蔵菩薩坐像(重要文化財)
→特別展 移動する仏像―有田川町の重要文化財を中心に―
→移動する仏像展日誌バックナンバー
→和歌山県立博物館ウェブサイト