「移動した童子像」
有田郡有田川町粟生の吉祥寺に、重要文化財に指定される不動明王及二童子立像(平安時代)が伝わる。不動明王像は一般的な表現であるが、二童子立像は頭部両脇に耳豆良を結い、袍を着て沓を履いた姿で、その姿は通常の不動明王の眷属像とは大きく異なる。像高も中尊像と比べて小さい。現状の組み合わせは、どうやら本来のものではないらしい。
日本において童子像は、人と神仏との間を介在し、聖俗をつなぐ役割を果たす存在として認識されていた。吉祥寺の童子像も、本来そういった聖なる介在者としての童子像として造られたと考えられるが、では本来はいかなる場で信仰されたのだろうか。
実は吉祥寺には、重要文化財に指定されている不動明王立像とは別に、もう一体不動明王立像が伝わっている。それは、額に三つ目の眼を持ち、牙を上下に出し、冠をつけ、鎧に身を包んだ、寺では三ツ目不動と呼ばれている極めて特殊な不動明王像である。知る限り、日本で類似する形式を持つ仏像・仏画は見つかっていない。
今回、展覧会の準備中に初めて、この三ツ目不動と先の童子像が本来一具のものであることが判明した。穏やかな丸顔、やや首を前に突き出した猫背の姿勢、腰高で下半身がすらりと伸びる体型、足先の長い沓の形状、その足裏に造られた枘のかたち。あらゆる表現が一致していた。三体が離ればなれとなったのは、最近のことではないようである。それは、不動明王像には、江戸時代に修理に伴って塗られたと考えられる墨塗りによる古色仕上げが施されているのに対して、童子像は素地を呈していることから判断される。
この三体が組み合わされることで、類例のない三目で鎧をつける不動明王像について考えるための手掛かりも得られた。先に童子像が、聖と俗の境界にあって、人と神仏を結ぶ聖性を帯びた存在であることを確認したが、実は日本で、不動明王二童子像が神の姿として造られたことが分かる、これも特殊な事例が一例だけある。それは大分県の長安寺に伝わるもので、耳豆良を結った童子形の中尊像に、やはり耳豆良を結った童子と髪を逆立てた荒ぶる姿の童子像が付随し、中尊像の像内の銘文から、大治5年(1130)に、不動明王を本地仏(神の本来の姿である仏、の意味)とする太郎天(屋山太郎惣大行事)という名の神の像として表されたことが分かる。
吉祥寺の、三目を表して鎧をつけるという儀規(仏の姿や性格を規定する経典に基づく約束事)に全く属さない不動明王像の姿も、あるいは長安寺の像と同様に、不動明王二童子を本地仏とする神の表象として選択され造形化されたものではないか、そういう考え方が可能となったのである。謎の不動明王二童子像の正体が何か、現時点ではまだ正確な答えは見つかっていない。しかし今回得られた新しい事実は、その答えへの道筋を確かに照らしているように思われる。さらなる検討を重ねていきたい。(学芸員 大河内智之)
不動明王及二童子立像(重要文化財) 吉祥寺蔵
【現状での組み合わせ】
不動明王立像・二童子立像 吉祥寺蔵
【造像当初の組み合わせ】
太郎天及二童子立像(重要文化財) 大分・長安寺蔵
【参考 不動明王を本地とする神の姿】
→特別展 移動する仏像―有田川町の重要文化財を中心に―
→移動する仏像展日誌バックナンバー
→和歌山県立博物館ウェブサイト