今日(2日)、午後1時30分から、ミュージアムトークを行い、10人の方に参加していただきました。
(中尊寺経の前での展示説明)
(中尊寺経の展示、全体)
中尊寺経は、永久5年(1117)に、奥州藤原氏初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056?1128)が発願して書写が始まったといわれ、現在、中尊寺経の大半を占める4296巻は、高野山の金剛峯寺に所蔵され、国宝に指定されています。
(中尊寺経〈金剛峯寺蔵〉の展示) (中尊寺経〈大集経巻第二十一〉、金剛峯寺蔵)
中尊寺経が、どのような経過で高野山に移されたのかは必ずしも明らかではありません。
一説には天正19年(1591)に陸奥攻めを行った豊臣秀次(1568?95)が、浅野長政(1547?1611)に命じて中尊寺経の大半を持ち去り、高野山の木食応其(1536?1608)に与えたとも伝えられています。
(義演准后日記〈慶長3年6月8日条〉、醍醐寺蔵)
その根拠となったのが、義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき、重要文化財)の記述です。
慶長3年(1598)6月8日条には、先日秀吉から仰せつけられた陸奥国からの一切経二部が伏見に届いた。
一部は醍醐寺に納め、もう一部は願い出て高野山へ譲りたいというのが応其の内々の考えのようである、と記されています。
(中尊寺経〈安楽寿院蔵〉の展示) (中尊寺経〈集一切福徳三昧経・巻第一〉、安楽寿院蔵)
安楽寿院にも、金銀字交書(きんぎんじこうしょ)のお経(三巻)が残されています。
このお経も中尊寺経の特徴を備えていて、何らかの経緯で陸奥から伝来したものと考えられます。
それを仲介したのが、応其・覚栄であった可能性があります。
この中尊寺経の伝来については、特別展図録に、当館竹中学芸課長執筆のコラム(「中尊寺経伝来の謎」)が収録されていますので、あわせてご覧ください。
次回のミュージアムトークは、10日(日)午後1時30分から行います。
(主任学芸員 前田正明)
→和歌山県立博物館ウェブサイト
→特別展 京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?