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たたかう村コラム1 官省符荘百姓等申状案

元弘3年(1333)、紀ノ川以南、貴志川以東の地が高野山金剛峯寺の荘園として正式に認められました。
以後、金剛峯寺は荘園支配の再建を目指します。
そのなかで、金剛峯寺は荘園の詳細な土地調査(検注)を行い、
年貢・公事の額を確定し、高野山内でかかる様々な費用(法会の費用や僧侶の給料など)の配分を取り決めました。
高野山の膝下、官省符荘(橋本市西部・九度山町・かつらぎ町東部に所在した広大な荘園)では、
応永元年(1394)から全村の土地調査が実施され、同3年に完了しました。
金剛峯寺の改革の機会を捉えて、官省符荘の百姓等は荘官(荘園の役人)の非法を金剛峯寺に訴え、
荘官の罷免を要求しました。それが今回紹介する官省符荘百姓等申状案です。
百姓が訴えた荘官の非法の数々が記されています。
荘官は、祭りや儀式など村の行事の際(座席代や接待代など)に、
法外な手数料を取ることなどしていました。
また、出張の際に百姓を動員してお供をさせたり、荘官の家の掃除や造作、
正月の松飾りに召し使ったりなど、私的な事柄で百姓を使役していました。
このように荘官の私的な不法行為を放置したままでは、百姓は年貢を納められなくなり、
ひいては金剛峯寺にも年貢が入らなくなり困るだろうと、
百姓は金剛峯寺に対して、脅しにも似た主張をしています。
単に自らの窮状を述べるだけでなく、百姓が困れば金剛峯寺も困るだろう
という論法で高野山に迫っています。
当時の百姓たちの力量、たくましさをうかがい知ることができます。
これらの訴えのなかで、特に注目すべきものが枡の統一を要求した箇所です。
官省符荘百姓申状案
(官省符荘百姓等申状案 末尾 *後から七つ目の一つ書きが枡について書かれた箇所)
中世の枡は地域により、また用途により大きさが異なっていました。
荘官は金剛峯寺に納める時に使う枡よりも、少し大きめの枡を使って百姓から年貢を集め、
差額を自らの懐にいれていました。
百姓たちは荘官の不正を見抜き、金剛峯寺に訴えて、
高野山上と現地の荘園とで同じ大きさで、
なおかつ判(サイン)のある枡を作るよう要求したのです。
その結果、金剛峯寺からは代表者の職名と判、年月日を彫った枡(「高野枡」)が、村々に下されました。
しかも、その枡の実物が今、かつらぎ町柏木地区には残されています。
このように室町時代の枡の実物が残り、なおかつその成り立ちの経緯がわかる点も非常に貴重です。
室町時代の村人たちのたたかいの様子、生の「声」、
そしてその戦利品ともいえる枡を、是非ともこの機会に見ていただきたいと思います。
(学芸員 坂本亮太)

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