今回の「箱と包みを開いてみれば―文化財の収納法―」のコラムでは、
「二重の箱と包みに守られた家康の冠(かんむり)」について、ご紹介しましょう。
江戸幕府を開いた徳川家康(1542-1616)は、元和2年(1616)に駿府(すんぷ、現在の静岡県静岡市)で亡くなり、翌元和3年(1617)に「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号が与えられ、以後は神として信仰されることとなりました。
一方、紀伊藩初代藩主の徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602-71)は、家康の十男で、家康晩年の子であったため、家康からことのほか愛され、幼少より駿府の家康のもとで育てられました。家康が亡くなったときにも、駿府で家康のそば近くに仕えており、後の御三家となる尾張(おわり、現在の愛知県)の徳川義直(とくがわよしなお、1600-50)、水戸(みと、現在の茨城県水戸市)の徳川頼房(とくがわよりふさ、1603-61)とともに、家康の遺品や遺産を譲り受けています。その後、元和5年(1619)に紀伊国へ入国し、紀伊藩の初代藩主となった頼宣は、元和7年(1621)に家康を神としてまつる紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)を和歌浦へ建て、その紀州東照宮に、譲り受けた家康の遺品の多くを奉納したのです。
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写真に挙げた冠(かんむり)も、そうした家康の遺品の一つで、実際に家康が使用した冠と伝えられているものです。冠は、裂(きれ)に包まれたうえで、「芦雁蒔絵冠箱(ろがんまきえかんむりばこ)」という華麗な箱に納められ、さらに、この冠箱も裂で包まれたうえで、桐の外箱に納められて伝来しました。(写真一番右の黒い冠を、その左にある裂で包み、さらにその左にある冠箱に入れて、冠箱を左にある裂で包み、一番左にある桐箱に収納していたのです。)
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そもそも冠は、羅(ら)という薄い絹の織物を漆で塗り固めて作られたもので、衝撃などに弱く、こわれやすい資料でもありました。つまり、二重の裂をはじめ、冠箱や桐の外箱といった二重の箱に入れて、大切に伝えられたからこそ、こわれやすい冠自体も、400年近い年月を経て、なお比較的良好な保存状態で残されたといえるのです。
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ところで、内箱に相当する「芦雁蒔絵冠箱」は、漆(うるし)に金粉をまいた金蒔絵(きんまきえ)と呼ばれる技法を用いて、芦(あし)という植物や、雁(かり)という鳥をあらわした楕円形(だえんけい)の箱です。芦の生える水辺に、雁が群れをなして舞い降りてくる様子があらわされており、箱の側面や蓋の上に表現された雁は、羽毛の部分などが実に細かく描写されています。また、箱の身の側面には、葵紋(あおいもん)の形をあらわした紐(ひも)を通す金具がつけられ、蓋の裏にも三つの葵紋があらわされています。こうした蒔絵の華やかな装飾によって、中の冠が徳川家康の使った貴重な資料であることを示しているともいえるでしょう。
箱は、このような飾りや装飾の美しさによって、中の資料の格式の高さや重要性を強調し、今後も大切に伝えていこうという意識を高める役割も担ったのです。
その意味で、家康所用の冠は、このような箱と包みの役割が、幾重にも重ねられて、はじめて守られ、伝えられたものといえるのではないでしょうか。(学芸員 安永拓世)
→企画展 箱と包みを開いてみれば―文化財の収納法―
→和歌山県立博物館ウェブサイト