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コラム 紀州の画家紹介 4 山本養和(やまもとようわ)

企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
4回目にご紹介するのは、山本養和(やまもとようわ)です。
山本養和(やまもと・ようわ)
◆生 年:安永5年(1776)
◆没 年:文政12(1829)3月18日
◆享 年:64歳
◆家 系:新庄越前守(しんじょうえちぜんのかみ、生没年未詳)の家臣である藤井三郎右衛門芳房(ふじいさぶろううえもんよしふさ、生没年未詳)の二男。後に、江戸の紀伊藩のお抱え絵師の二代である山本泉和(やまもとせんわ、1732~94)の養子となる。
◆出身地:江戸
◆活躍地:江戸・紀伊
◆師 匠:山本泉和(養父)・狩野典信(かのうみちのぶ、1730~90)
◆門 人:山本伊球(やまもといきゅう、1784~1859)(長男)
◆流 派:狩野派(木挽町狩野(こびきちょうがのう))
◆画 題:山水・人物など
◆別 名:惟昌・豊湖・松寿斎
◆経 歴:紀伊藩のお抱え絵師。寛政2年(1790)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から、3人扶持をもらう。寛政5年(1793)、7人扶持となる。寛政6年(1794)、治宝に同行して紀州へ行く。同年、養父の山本泉和の跡を継いで「小普請格」、切米27石となる。同年、治宝に同行して熊野へ行く。寛政7年(1795)、「御絵御用」で高野山へ行く。同年、「御紋付黒縮緬御羽織」を拝領。寛政8年(1796)、治宝に同行して紀州へ行く。同年、「表御針医格」、年々銀5枚となる。寛政9年(1797)、「奥御針医格」、切米40石となる。同年、治宝に同行して紀州へ行く。寛政10年(1798)、「本道御医師格」となり、50石に加増。寛政11年(1799)、翌年に治宝が紀州へ行くのに合わせ、先に紀州へ行く。文化10年(1813)、「御匙医格」となる。文化14年(1817)、60石に加増。文政10年(1827)、70石に加増。治宝からの信任も厚く、何度も紀州へ同行し、紀三井寺の障壁画などが残る。
代表作:「紀三井寺御殿障壁画(きみいでらごてんしょうへきが)」(紀三井寺蔵)、「梅鷹図(ばいようず)」(和歌山県立博物館蔵)寛政7年(1795)、「郭子儀図(かくしぎず)」(個人蔵)など
今回展示しているのは、養和の代表作である「郭子儀図(かくしぎず)」(個人蔵)です。
山本養和筆 「郭子儀図」 (個人蔵) 軽
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
山本養和筆 「郭子儀図」 左 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 中 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 右 (個人蔵) 軽
山本養和筆 「郭子儀図」 左 款記 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 中 款記 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 右 款記 (個人蔵) 軽
山本養和筆 「郭子儀図」 左 印章 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 中 印章 (個人蔵) 軽 山本養和筆 「郭子儀図」 右 印章 (個人蔵) 軽
款記は「養和惟昌図之」、印章は「惟昌」(朱文鼎形印)です。
山本養和も、岩井泉流(いわいせんりゅう、1714~72)などと同じく、江戸で活躍した紀伊藩のお抱え絵師ですが、養和は、紀伊藩10代藩主の徳川治宝にかなり気に入られたようで、治宝の参勤交代に同行して、何度も紀州を訪れました。治宝の命で高野山で絵を描いたことなどもわかっていますし、実際、紀三井寺の御殿には、山本養和が描いた金地の「墨竹図(ぼくちくず)」が残されており、御殿の障壁画の中で、最も格式の高い部屋を担当しています。今回展示している、「郭子儀図」も、養和の代表作で、長寿で多くの子や孫にめぐまれた郭子儀を描いた、おめでたい作品です。濃く良質な顔料で、モチーフを丁寧に描き出していくこうした描写は、師である狩野典信が得意としたもので、その表現をかなり継承していることがよくわかります。治宝や、紀伊藩の重臣などに頼まれて、あるいは、藩主の贈答用として、こうした吉祥主題を数多く描いたのかもしれません。(学芸員 安永拓世)
江戸時代の紀州の画家たち
和歌山県立博物館ウェブサイト

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