企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
19回目にご紹介するのは、祇園尚濂(ぎおんしょうれん)です。
祇園尚濂(ぎおん・しょうれん)
◆生 年:正徳2年(1712)
◆没 年:寛政3年(1791)12月14日
◆享 年:80歳
◆家 系:紀伊藩の儒学者である祇園南海(ぎおんなんかい、1676~1751)の二男
◆出身地:紀伊
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:祇園南海(父)
◆門 人:未詳
◆流 派:文人画
◆画 題:花鳥(墨竹・墨梅など)
◆別 名:孫三郎・余一・師援・鉄船道人・百懶・餐霞・唐嶼など
◆経 歴:紀伊藩の儒学者、文人画家。寛延3年(1750)、「不行跡」として、和歌山城下20里の外に追放となり、以後、牟婁郡瀬戸鉛山村(むろぐんせとかなやまむら、現在の白浜町)に謫居する。宝暦13年(1763)、紀伊藩7代藩主の徳川宗将(とくわむねのぶ、1720~65)の若君、すなわち後の紀伊藩8代藩主の徳川重倫(とくがわしげのり、1746~1829)の誕生祝いで赦免され、和歌山城下に帰参し、7人扶持をもらう。明和2年(1765)、「物読格」となり、紀伊藩8代藩主となった重倫に御目見を果たす。同年、講釈場で講釈するよう命じられる。明和4年(1767)、紀伊藩の儒学者となり、切米40石をもらう。同年、「奥詰」となる。明和5年(1768)、中国の福州の人が漂着した「御用」で、熊野へ行く。明和8年(1771)、久村七左衛門の屋敷を拝領する。紀伊藩9代藩主の徳川治貞(とくがわはるさだ、1728~89)の代のとき、老年のため、他所勤を免除される。寛政3年(1791)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から、80歳まで勤めた褒美として白銀10枚をもらう。講堂への勤務は自由となる。絵は、父の南海から学んだとみられるが、南海よりも大胆で粗放な筆致に特徴がある。作例は大半が墨梅。
◆代表作:「墨梅図(ぼくばいず)」(和歌山県立博物館蔵)、「墨梅図」(個人蔵)など
今回展示しているのは、尚濂の代表作の一つである「墨梅図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
題詩は「影暗溪霜暁/魂寒山月孤」で、款記は「餐霞道人并題」で、
印章は「尚濂之印」(白文方印)、「睡□(衛?)以仙」(白文方印)、「鏡華水月」(朱文長方印)です。
尚濂の絵画作品は、それほど多いわけではありませんが、残されている絵の大半はこうした墨梅図ですので、どうやら墨梅図を得意としていたとみられます。この絵は、かなり大作な墨梅図の一つで、大胆な構図と筆致が見どころです。こうした絵画表現には、父である祇園南海からの影響もうかがえますが、黄檗宗の僧侶や、18世紀の同時代の画家などとの関連性もあるかもしれません。尚濂の現存作が少ない現状では、不明な点が多いものの、今後の検討が期待されます。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト