新収蔵資料 界西西方寺文書(館1247)

 新たに紀美野町毛原宮の界西地区(西方寺)の文書が寄贈されました。

 界西地区は、貴志川の上流にあたり、毛原宮から勝谷(紀美野町)に抜ける山間部に位置する小集落で、江戸時代には界西(通西)村としてあらわれます。古文書は総数128点を数え、その内訳は、中世文書が3点、近世文書37点、近代文書(不明分含む)88点からなります。この文書群は、既に紀美野町美里町誌編纂室によって調査・整理がなされ、目録化のほか、資料の翻刻も行われ、『美里町誌』史料編Ⅱにも一部翻刻掲載されています。ご寄贈を受けるにあたり、再整理と写真の再撮影も実施しました。

 なお、本文書群のうち、嘉吉4年(1444)センクワンハウ紛失状〈1号〉、嘉吉4年センクワンハウ紛失状〈2号〉、寛正4年(1463)メウクウフウフ寄進状〈3号〉の3通は、平成23年(2011)に当館で開催した特別展『中世の村をあるく―紀美野町の歴史と文化―』にて展示させていただいたものです(『中世の村をあるく―紀美野町の歴史と文化―』p.96に掲載)。

 中世文書3通は、いずれも土地に関する証文です。

(端裏書)

「タワノ御ウチカミノシタチミツガセノサウヤノフン」

イシハシリノシヤウウチ、カチヤムキ」ヒガシミツガせノサウヤアワセテ」一ソノトコロ四ハウサイメハ、ヒガシハミ子」ヲカキル、ミナミハミツカシラヲカキル、」ニシヲカキル、上ハオダキカラコヲヽシヤウ、」シモハタニカギリ、キタワコマツヲヽカキル、」コノサウヤワカイニシノクボセンゾソウデンノ」サウヤト申せトモ、イマダタワノ御ウヂガミ」エヽイタイカギリキシン申事シツシヤウ也、」ホンケンヲバカウヤノランニウシナイソロテソエ」ヅソロ、コノシヤウモンホンニアルヘキモノナリ、モシ」ホンケアルト申人アラバヌス人トアルヘシ、」カイニシノクボチヤクシせんクワハウノキシン(略押)

カキチ二二子ンキノヱ子ノトシ二月九日

 

(読み下し)

「タワの御氏神の下地、ミツガセの草野の分」

石走庄内勝谷向き

東ミツガセの草野、合わせて

一その所、四方境目は、東は峰を限る、南はミツカシラを限る、西を限る、上はコダキ・カラコ尾をシヤウ、下は谷限り、北はコマツ尾を限る、この草野は界西のクボ先祖相伝の草野と申せども、いまだタワの御氏神へ永代を限り寄進申す事実正也、本券をば高野の乱に失い候て添えず候、この証文ホンにあるべきものなり、もし本券あると申す人あらば、盗人とあるべし、界西のクボ嫡子せんクワハウノ寄進(略押)

嘉吉四年甲子年二月九日

 

 ケンクワンハウ紛失状〈1号〉は、嘉吉4年(1444)「カイニシノクホノチャクシノセンクワンハウ(界西クホノ嫡子ノセンクワン房)」が、勝谷(紀美野町勝谷)の山野をタワの氏神へ寄進しましたたが、その寄進状を「カウヤノラン(高野の乱)」で紛失したため、本文書が代わりとなるものであることを宣言した紛失状です。「高野の乱」は、恐らく永享5年(1433)に高野山六番衆と紀伊国守護軍とが高野山上において大規模な合戦をおこなった「高野動乱」とみられ、「高野動乱」では多数の死者が出て、山上の坊舎・堂塔の多くが焼失するという大事件です。高野動乱の影響が紀美野町域まで及んでいたことを示し、たいへん興味深いものがあります。さらに界西という地名のほか、「イシハシリノシヤウ(石走庄)」「カチヤ(勝谷)」などの地名がみられる点も重要です。

 なお、〈2号〉は〈1号〉と同文で、ともに略押が据えられています。 

 また、メウクウフウフ寄進状〈3号〉は、メイクウフウフ(夫婦ヵ)が、界西の坂の道の草刈り費用として料足300文を寄進した文書で、道の維持費用が記されていることも興味深いものがあります。

 

 

カイニシサカノミチカリヱキシン」申レウソクノ事

  合三百文

右カノレウソクノ事、シソンミヘンノ」アカツキマテモ、イカテイノコト」アリトユウトモ、ヨノコトニカワリ」フサタナク、マイ子ン三百文ノリフンニ」百文、レウ人シテカリ申ミチカリノ」トキ、サケニテ候トモ、ムキ・コメニテ候」トモ、トキニヨリ候テ、□□ツヽイタシ」候ヘク候、カイト■ニトシニ二人ツヽサ」ハクリ候ヘク候、

キシン人上ハタチトウせンメウクウ」フウフノキシンナリ、ヨンテ五日ノタメ」クタノコトシ、

クワン小二二子ン〈ミツノト/ヒツシノ〉トシ五月三日

 

(読み下し)

界西坂の道苅りへ寄進申す料足のコト

 合三百文

右、彼料足の事、子孫三返の暁までも、いかてい(如何程)の事ありといえども、よのこと(他の事)に変わり無沙汰なく、毎年三百文の利分に百文、両人して苅り申す道苅りの時、酒にて候とも、麦・米にて候とも、時により候て、□□ずつ出し候べく候、カイト(垣内)に年に二人ずつさばくり(捌)候べく候、

寄進人、上はたちとうせんメウクウ夫婦の寄進なり、よって後日のため件の如し、

寛正四年癸未年五月三日

 

〈1号〉〈3号〉ともに、「カイニシ」(界西)という地名が登場し、界西地区が15世紀半ばに遡る村であることがわかる点も重要なものといえましょう。また、いずれもカタカナで記され、文章も整わないものではありますが、在地で作成された売券として注目すべきものと考えます。

 近世文書では、山林売買や山林の管理に関する規定を定めた文書のほか、隣の勝谷村との山野相論に関する文書もあります。また、頼母子に関する定書や帳簿、用水(五反湧)の人夫にかかる帳簿、西方寺の建立に際しての奉加帳などもあります。そのほか、四国遍路や西国巡礼の納経帳なども残されています。

近代文書では、共有山に関する約定書・連絡事項、西方寺再建に関する帳簿、頼母子の帳簿、地券・地租領収書などがあります。近世・近代文書ともに、生業の場である山野に関する取り決めと争い、村の運営、西方寺の維持管理にかかわる文書が残されており、高野山麓の山間部の村落の様相をうかがうことができる貴重な資料です。

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