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「古今年代記」を読む―比井浦の宝永4年の津波被害―

今回からは、日高町の比井浦に関わる記録「古今年代記」を読みたいと思います。 
「古今年代記」は、比井浦で廻船業を営んでいた村上家に残されていた古文書で、
天正13年(1585)から寛政2年(1790)ごろまでの比井浦の歴史を記したものです。
比井浦内の寺社・祭礼、地名の由来、火事などの事件、宝永の津波、
歴代庄屋などのことが記されています。
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今回取り上げる内容は、前々回・前回に引き続き
宝永4年(1707)の津波に関するものです。
広浦の場合と比較していただけたらと思います。
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(本文)
一比井ハ勿論紀州一国津波上リ候ハ、宝永四
 丁亥十月四日未ノ刻也、泉州・摂州も
 同断。大坂辺も家々つふれ候由、関東も地震不断不絶
 右此時比井ハ家数多流、大そうとうニ候、田
 地ハ八反田迄浪上る、御宮段橋三段迄浪
 上る、長覚寺屋敷門口迄浪上る、其時の
 庄屋治右衛門也、御検地長流失仕候ニ付、御願
 申、若山御天守矢倉長ヲ写取申候者
 和歌山かじや町玉屋十兵衛〈法名教道〉世話歟
 写申候、尤御検地長ニ少も相違無之候、
(内容)
比井浦はもちろん、紀伊国全土で津波が起こったのは、
宝永4年(1707)10月4日未の刻(午後4時ごろ)のことである。
和泉国(大阪府)・摂津国(大阪府・兵庫県)も同じである。
大坂のあたりの家々も潰れたということで、関東も地震が止まなかった。
この時に比井浦では、家が多数流されて大騒動になった。
田地は「八反田」まで水がのぼった。
比井若一王子神社の橋(石段?)の三段目まで津波の水がのぼってきた。
「長覚寺屋敷」の門口までも津波がやってきた。その時の庄屋は治右衛門である。
津波で検地帳が流失してしまったので、
お願いして和歌山城天守閣の櫓に保管されている帳面を写した。
これは、和歌山鍛冶屋町の玉屋十兵衛(法名教道)の世話によるものだろうか、
それで写し取ることになった。もっとも、検地帳には少しも違いがない。
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(本文)
 此時
 四郎右衛門、代々所持の器物過半流失致候、
 家ハ八畳六間ニ小納戸添七間取也、表ニ長
 屋門、牛屋幷馬屋、柴や、雪隠、下部屋、桁
 行都合十弐間、外ニ土蔵共不残流失致候、
 正宗ノ作九寸五歩の鎧通流失致候処、横馬
 場と四郎右衛門屋敷ノ間ニ埋有之候処、権七
 娘おらく〈宝永七己未ノ生/此時廿九才〉拾ヒ候而旁々へ見せ申候
 処、代金十両ニ買可申旨申者在之候、庄屋
 治右衛門ハおらくと徒弟歟候故、治右衛門暇申候而、其
 子治右衛門〈児名/治三郎〉所持いたし候処、寛延弐己巳
 年九月ニ治三郎弟庄屋二郎右衛門とぎ拵
 御宮へ奉納仕、御祭礼ニ持渡し候ハ、此鎧
 通也、是四郎右衛門重代の什物失申候、
(内容)
この時の津波で四郎右衛門は代々所持してきた器物の大半を失ってしまった。
四郎右衛門の家は八畳六間で、七間に小納戸がある。
表には長屋門を構え、牛屋・馬屋、柴屋、雪隠(トイレ)、下部屋があり、
桁行は都合12間(約22m)で、外には土蔵があったが、津波で残らず流失してしまった。
四郎右衛門は正宗作の9寸5分(約29㎝)の「鎧通」(短刀)を持っていたが、
それも津波で失ってしまった。
鎧通(短刀)は津波で流され、横馬場と四郎右衛門の屋敷の間に埋まっていたのを、
元文4年(1739)に権七の娘おらく(宝永7年生まれで、当時29才)が拾い、
あちこちで見せびらかせていたところ、代金10両で買いたいというものが現れた。
庄屋治右衛門はおらくと徒弟関係にあったからだろうか、
治右衛門は庄屋の役職を辞めたため、
短刀はその子である治右衛門(子どもの時の名前は治三郎)が所持していたのを、
寛延2年(1749)9月に治三郎の弟の庄屋二郎右衛門が研いで(若一王子)神社へ奉納した。
神社の祭礼で持ってお渡りをするのは、この鎧通(短刀)である。
これは四郎右衛門が代々所持していた什物であり、津波で失ったものである。
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(本文)
 今の
 浜屋敷ハ三歩一ならで無之候由、〈北西道通り/十丈四尺也〉
 しゆろの木ハ居屋敷の古跡、綱編み以前昔
 よりの木也、先年南龍院様御成の節ハ
 四郎右衛門〈広宗浄永〉庄屋ノ時也、爾ハ御殿様御覧
 ニも及候木也、井戸ハしゆろノ木ノ許ニ有之処、津波
 ニ埋リ候付、今ノ蔵ノ西へ埋替申候、
(内容)
今の浜屋敷は、三分一だけしかなくなってしまったということである
(北西道通りの10丈4尺(約32m)分だけ)。
シュロの木は屋敷の跡で、網を編む以前の昔よりある木である。
先年、徳川頼宣公がお成りの際、四郎右衛門(広宗浄永)が庄屋の時のに、
徳川頼宣公も御覧になった木である。井戸はシュロの木のもとにあるが、
津波で埋まってしまったので、今は蔵の西側に井戸を埋め替えた。
以上が「古今年代記」に記された比井浦の津波のあとの状況です。
津波の被害の状況が詳しく記されています。
比井若一王子神社の宮段(石段?石橋?)まで津波がのぼってきて
人(家)によっては家財が流されたことなども具体的にわかります。
比井王子石橋   比井王子石段
(石橋)                (石段)
検地帳や鎧通(短刀)が流され、その後どのようになったのか(したのか)などが記され、
津波で流されたものの後処理が記されているのも非常に興味深いものがあります。
地元の庄屋さんが持っていた検地帳は流失したあと、
和歌山城天守閣の櫓に保管されている帳面が残っていたためにそれを写したことなどもわかり、
記録を別の場所でも複数保管しておくことの重要さもわかります。
またその一方で、約30年間、短刀が溝に埋まったままで、拾われたが、
結局は神社へ奉納され、祭礼の渡御に用いられていたこともわかります。
さらに、この記録で興味深い点は、津波被害の状況だけにとどまりません。
比井浦の暮らしや景観をうかがうことができる点も注目すべき所があります。
四郎右衛門の家の屋敷規模や、牛屋・馬屋があったこともわかりますし、
比井浦の家にはシュロの木がたっていて、それで魚取り用の網を作っていたこともわかります
(ただし昔=江戸時代の初め頃にはまだシュロで魚網を作っていなかったようです)。
津波で家は流されて、シュロの木だけが残り、家の跡を示すという光景も浮かんできます。
このように、津波被害の話ではありますが、
別の見方をすることで、比井浦の風景や暮らしも浮かびあがってきます。
単にストーリーを追うだけでなく、見方を変えることで、
様々な歴史や文化が明らかになるというのも、また古文書の魅力の一つです。
それぞれの視点で古文書から情報を引き出していただけましたらと思います。
〈より詳しく知りたい方ヘ〉
「古今年代記」は、『和歌山県史』史料編近世五(p.846~864)
に収録されています。
                (学芸員 坂本亮太)

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