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コラム 紀伊藩主をめぐる文雅(3) 李梅溪の父母状

父母状 李梅溪筆 画像クリックで拡大します。
父母状 李梅溪筆 個人蔵


李梅溪の父母状


 紀伊藩では、藩主自身が文化的な活動を積極的におこなったのみならず、最新の学問や芸術をいち早く取り入れるため、多くの人材を集めました。そうした人々の中には、紀伊藩内の出身者のほか、朝鮮出身の人物や、京都で活躍していた著名人なども含まれており、全国各地から優れた人材を登用したことがうかがえます。
 たとえば、李真栄(りしんえい、1571?1633)という人物は、文禄の役(ぶんろくのえき)の時に朝鮮で捕らえられて大坂へ渡り、その後、和歌山へ移り住んで、民間の儒学者となっていたところを、紀伊藩初代藩主の徳川頼宣(よりのぶ、1602?71)から召し抱えられました。藩主の前で儒学の講義などをおこなっています。その李真栄の子である李梅溪(りばいけい、1617?82)は、父の跡を継ぎ、2代藩主光貞(みつさだ、1626?1705)の学問指南を勤めたほか、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が日本に来航した時にはその応対にあたりました。
 写真に挙げた父母状(ふぼじょう)という資料は、この李梅溪が、万治3年(1660)に藩内の者に親孝行の大切さを教えるため、頼宣から命じられて作成した触れ状です。そのきっかけは、これより以前、熊野の山の中で親を殺した者が役人に捕らえられたとき、「私が殺したのは他人の親ではなく自分の親である。わがままばかり言うので困り果てて殺した。私は間違っていない」と言ったことに始まります。このことを伝えられた藩主の頼宣は「自分の政治が民衆に行き渡っていないからだ」と嘆き、李梅溪を遣わして、この者を教え諭(さと)しました。頼宣は、再びこのような事件が起こらないようにと、藩内に触れ状として出したのが父母状です。親孝行の大切さや、法律を守ること、正直を第一として家業に専念することなどが書かれています。
 この父母状は、藩の民衆統制の規範ともなり、その後も何度か触れ状として出されました。藩内に平和で安全な社会を築くため、藩主には、武力だけではなく、多様な人材の知識や教養が不可欠だったと言えるでしょう。(学芸員安永拓世)
企画展 紀伊藩主をめぐる文雅
和歌山県立博物館ウェブサイト

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