企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
21回目にご紹介するのは、崖南嶠(きしなんきょう)です。
崖南嶠(きし・なんきょう)
◆生 年:明和6年(1769)
◆没 年:天保5年(1813)1月27日
◆享 年:66歳
◆家 系:町人である雑賀屋仁兵衛(さいかやじんべえ、生没年未詳)の三男。後に、紀伊藩の儒学者である崖熊野(きしゆや、1734~1813)の養子となる。
◆出身地:紀伊・江戸?
◆活躍地:紀伊
◆師 匠:崖熊野(養父)
◆門 人:崖蘭嶠(きしらんきょう、1801~1867)(長男)
◆流 派:文人画
◆画 題:山水・花鳥・人物
◆別 名:順蔵・弘美・世煥など
◆経 歴:紀伊藩の儒学者、文人画家。一説には江戸赤坂に住んだともされるが、未詳。後に養父となる崖熊野の甥にあたる。寛政3年(1791)、熊野に子がいなかったため、養子となる。熊野の没後は、紀伊藩の儒学者となり、その跡を継いだ。養父と同じく絵をよくし、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)の命で障壁画を描いて、その褒美として白銀をもらったとの記録もある。また、紀伊藩士で文人画家の野呂介石(のろかいせき、1747~1828)や、和歌山城下の吹上寺(すいじょうじ)の住職で文人としても知られた松丘(しょうきゅう、1765~1833)など、紀州の文人たちとも親交があったことが確認される。一方、文化12年(1815)刊行の『暢情集(ちょうじょうしゅう)』という詩文集に、南嶠の描いた挿図が載ることから、画家としてもよく知られ、同詩文集に載る菅茶山(かんちゃざん、1748~1827)や古賀精里(こがせいり、1750~1817)など、諸方の漢詩人や儒学者とも交流をもったと想像される。絵は、養父の熊野に学んだとみられ、熊野と同様、ややくせのある表現に特徴がある。
◆代表作:崖熊野賛「叭々鳥図(ははちょうず)」(和歌山県立博物館蔵)、野呂介石・松丘・崖南嶠筆「雅人集会図(がじんしゅうかいず)」(和歌山市立博物館蔵)文化8年(1811)など
今回展示している作品は、「叭々鳥図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「紀藩 南嶠樵者写」で、印章は「弘美之印」「世煥氏」(白文連印)です。
左上には崖熊野の書いた賛があり、
「「名教中有楽地」(白文長方印)/秋冬之丹不如春夏之紅/華好者亦不会有時/乎哇哇 熊野老人題/「弘毅之印」(朱文方印)、「剛先父」(白文方印)」と書かれています。
南嶠も養父の熊野と同じように、誰に絵を学んだのかもはっきりしませんが、この絵には、江戸時代の中期に来日した中国人画家である沈南蘋(しんなんぴん、1682~?)の画風や、南蘋の画風をまねた南蘋派と呼ばれる画家たちからの影響がうかがえます。叭々鳥の鋭いまなざしや、バラの花の描き方などは、そうした南蘋画風に学んだことが顕著です。南嶠は、野呂介石や松丘など紀州の文人たちとの交流も確認され、彼らと合作した作例も知られていることから、絵画表現のうえでも、何らかの関連性が想定されます。とはいえ、南嶠が描く人物の表現などには、養父である熊野と同じあくの強い描写が見られるため、熊野に学んだ面も当然あったことでしょう。熊野とともに、不明な点の多い画家ですが、やはり魅力的な絵を残しており、多様な文人との交流が確認されることから、今後の解明が期待できる画家の一人といえます。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト