企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
32回目にご紹介するのは、岩瀬広隆(いわせひろたか)です。
岩瀬広隆(いわせ・ひろたか)
◆生 年:文化5年(1808)
◆没 年:明治10年(1877)8月7日
◆享 年:70歳
◆家 系:京都出身の画家
◆出身地:京都
◆活躍地:京都・大坂・紀伊
◆師 匠:浮田一蕙(うきたいっけい、1795~1859)
◆門 人:未詳
◆流 派:浮世絵・土佐派・復古大和絵・諸派
◆画 題:古典・風俗・花鳥・山水
◆別 名:小野・俊蔵・彦三郎・彦三・魯七郎・清晴・清春・半夢・可隆・文可・曄斎・青陽斎・青楊斎・雪艇・仲昭・蕙泉・蕙泉斎・林屋・白雲・竹石・米年・昭年・海響・桜塢・琴泉・鞠園・春窓・蕙崖・菊園・延年・文峰・碧田・蕙谷・梅軒・松渓・琴屋・琴谷・黄萃・汀梅・雨山・鉄鑾・鉄幹・菫庵・風外・水鏡山房・松竹山房・黄心居など
◆経 歴:画家。京都の出身で、初め役者を目指したとの説もあるが、天保元年(1830)頃には、絵を描いて菱川清春(ひしかわきよはる)を名乗り、5代目菱川師宣(ひしかわもろのぶ、1618~94)を自称する。浮世絵や版本挿絵を多く手がけ、京都や大坂で活躍していたが、天保4年(1833)頃、『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』の挿絵を描くため、版元の高市志文(たけちしぶん)帯屋伊兵衛(おびやいへえ)、生没年未詳)の依頼で紀州へ招かれる。天保7年(1836)、京都祇園祭の長刀鉾(なぎなたぼこ)の欄縁金具(らんべりかなぐ)の下絵を描くなど、その後も京都を拠点としつつ紀州を往来し、各種の版本挿絵などを描いていたようだが、天保9年(1838)頃から、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)の高い評価を得て、治宝の命で絵画制作を担当するようになる。天保9年(1838)、治宝の命で、伊勢貞丈(いせさだたけ、1717~84)『位色便覧(いしょくびんらん)』の増補を土佐絵(とさえ)で描き、天保10年(1839)にも、治宝の命で、仙洞御所御田植図下絵(せんとうごしょおんたうえずしたえ)を描く。また、天保14年(1843)から弘化2年(1845)にかけては、治宝の命で、浮田一蕙や冷泉為恭(れいぜいためちか、1823~64)などの大和絵師とともに、「春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)」全20巻の模写事業に参加している。弘化2年(1845)には、『紀伊国名所図会』後編の編纂を命じられ、このころには紀伊藩のお抱え絵師的な役目を担っていたと想像される。広隆が正式に藩のお抱え絵師になった時期は未詳だが、『紀州家臣諸技芸員町屋御用諸氏人名録(きしゅうかしんしょぎげいいんまちやごようしょしじんめいろく)』(和歌山市立博物館蔵)によると、安政3年(1856)では「町絵師」の「勘定奉行支配小普請格」として3人扶持、文久2年(1862)では「御絵師」として5人扶持となっている。いずれにせよ、晩年には、紀伊藩のお抱え絵師としての地位を確立し、絵画制作も増えたようだが、その画風も古典や文学を題材とした復古大和絵的なものから、風俗画を主題としたもの、さらには、文人画風のものまで、変化に富み、まさに、幕末の紀伊藩を代表する画家といえる。
◆代表作:「高野山櫻池院上段の間障壁画(こうやさんようちいんじょうだんのましょうへきが)」(高野山櫻池院蔵)、「桜・紅葉短冊図」(個人蔵)弘化2年(1845)、「源氏物語図」(個人蔵)、「博雅三位図(はくがのさんみず)」(和歌山県立博物館蔵)など
今回展示しているのは、「舞踊図」(和歌山県立博物館蔵)です。
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
款記は「安政丙辰春/琹泉山樵広隆写」で、印章は「我心写兮」(朱文楕円印)です。
この絵は、月の下で踊る人々を描いた風俗図ですが、女性の衣や髪などが江戸時代前期ごろの風俗で描かれていることから、同時代的な風俗ではなく、やや古い時代の様子を懐古的に描いたものと考えられます。主題や表現は、大和絵的なものではないものの、そうした古い風俗を描いている点に、広隆の古典学習の一端がうかがえるともいえるでしょう。款記から、安政3年(1856)、広隆49歳の作とわかる点も重要です。広隆は、もともと浮世絵師として活躍していただけあって、こうした風俗画も得意とし、晩年まで、多くの風俗画を描いていたことが確認されます。いかにも広隆らしい復古大和絵派風の作例だけではなく、広隆の多様な画風と、その制作時期を知るうえで、こうした絵も貴重な作例といえるのです。(学芸員 安永拓世)
→江戸時代の紀州の画家たち
→和歌山県立博物館ウェブサイト